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教室から消えた沖縄の歴史・仲原善忠原著『琉球の歴史』(上・下)を読む~第18章 廃藩置県(下)②

2.改革を願う人々

【解説】
 原文は「人民のうごき」とあるが、「人民」という言葉はいかにもカビ臭い。勿論、peopleの意味で仲原は用いているのだが、「人々」でいいだろう。宮古島の直訴事件は『宮古史伝』に掲載されている話で、一般に語られる左翼の沖縄史には登場しない物語だ。守旧派の如何に醜いことか。こう言った事実を隠して、美化し粉飾した偽史を語るのは、お隣の国だけにしてもらいたいものだ。黄文雄氏が、支那にとっては、歴史の真実など関係なく、現政権が作るフィクションだと喝破されている。中華も、小中華も同じだ。歴史を直視できない民族は、いずれ滅びるだろう。しかし、その偽史に追随する我が国の情けない歴史家たちも、私たちの足を引っ張っているのだ。
 真実を語り伝えることは如何に、難しいことなのだろう。

【本文】
 首里政庁を中心にした人の思惑はさておき、沖縄の一般の人々の上に眼をむけて見ましょう。そこには、封建政治の重荷を負わされて、疲れ切っている人々がいました。彼らはこの激動の時期、何を思っていたのでしょう。
 明治維新から遡ること8年、1860年の夏、宮古島の士族であった波平仁屋恵教他4人が、那覇にいた薩摩の役人に日本への合併を求める嘆願文を出そうして捕えられています。
 彼らは「琉球は小国でありながら、大国の間に挟まれ、財政は常に乏しく、上は下を恵まず、下は重税のために疲れきっている。悪政のため、人々は1日も安らかな日をおくることができない。願わくば1日も早く日本とひとつにして、哀れな人々を救ってもらいたい」と、薩摩商人を通じて訴えようとしたのでした。
 不幸にも、そのことは首里政庁に知られました。5人は反逆者として捕えられ、恵教は3年間牢に閉じ込められた後に斬首、妻子は10年間久米島に、他の者も渡名喜、慶良間などに流されました。
 家族との別れに際して恵教は「世は遠からず我が言の如く大和の御代となるであろう」と語ったと言います。果たせるかな、この願いは廃藩置県によって17年後に実現されることになるのです。
 さて、この激動の時期、農村に住んでいた人々はどのような思いを抱いていたのでしょうか。
 農村では一部の富農、村役人など特権階級は、首里の開化党の影響が強く、中には頑固党の者さえいました。しかし一般農民は、政庁の悪政を憎むことは甚だしく、日本から松田道之、伊地知貞馨らの官吏がきて、政治の改革を命じた後は、内心大いに喜び、いつ政府が、我らを苦難から救ってくれるかと、皆その日を待ち望んでいたのです。
 島尻で10年来の豊作になると、「これはきっと、日本の管轄になり、改革が行われるしるしである」と農民は心の中で万歳を唱えて喜びあい、国頭でも、1日も早く日本の政治になるようにと、農民は皆願っていました。
 首里、那覇の士族の中にも、政庁の考えとは別に、「琉球は海中の小島で、物産が少く、日用品は多く日本製品を使っている。日本を離れては1日も生活ができない。多くの人がこれを知っていながら反対しているのは、上の方の人に騙されているに違いない」と、政府の命令を素直に受けとり、政治を改革しなければならないと考えた人もいました。
 しかし、こういった常識ある人々の同志は人数も少く、内務省の役人と連絡し、その保護を受けなければ活動できないような危険な状態でした。
 首里の士族、大湾朝功は、沖縄の政治腐敗について、実例をあげて説明し、その改革を唱えた文書を松田のもとに出しています。
 「沖縄の実情は、決まった家柄の者だけが、政治の権を握っているが、実は彼らは、人民の血を吸って生きる賊徒である。心ある者は政治の改革を願っても、刑罰を恐れ、恨みを呑んで、黙っているにすぎない」。
 「自分は、彼ら、人民の血を吸う何百人の賊どもに憎まれても、自分が今、命を捨てるなら、自分に同意する者は、全沖縄の平士(下級の士族)から平民にいたるまで、何十万人いるかわからない。よって自分は、今、死を覚悟し、賊臣の横行を天下に示し、忠義の名を表わし、名を末代に残そう」。
 こう言って、具体的に悪政を暴露しています。
 都会でも農村でも、支配階級はなるべく改革を免れようと考え、下の階級は、1日も早く改革を実行してもらいたいと考えていました。`
 松田は、部下の官吏に命じ、租税その他政治の内情を調査させ、また多くの探偵を方々に出して、人々の様子を探らせました。その結果松田は、社会の実情を政庁の役人よりも、詳細に知ることになりました。
 調査をした人々はこのように報告しました。
 「租税は五公五民というが、地頭が他にも様々なものを取り立てるので、実際には七公三民になるところもある。全くひどい政治で、気の毒とも何ともいう言葉がない」。
 「悪い役人の多いこと、まるで支那をまねたようで、百姓を虐待する様子は、実に驚く外はない」。
 「つまり、毒を百姓に流して、平気でいるような状態で、嘆かわしい次第である」と憤慨しています。
 首里の政庁や頑固党の連中は、このような政治を続けさせてくれと、政府に懇願していたのです。政府はこのような悪政に対し、憤りと共に、改革を進めることになるのです。

【原文】
二、人民のうごき
 政庁を中心とした人、のうごきから、われわれは、広く沖繩全体の人民の上に眼をむけて見ましょう。
 ここには、封建政治の重荷をおうて、つかれきっている人、がいます。彼等はどう考えていたか。
 一八六〇年(明治維新より八年前)、宮古島の士族、波平、外三人の者は、那覇のさつま役人に歎願文をだし、日本への合併をねがっています。    
     「琉球は小国でありながら、大国のあいだにはさまれ、財政はつ
    ねに乏しく、上は下をめぐまず、下は重税のためにつかれきってい
    る。悪政のため、人民は一日も安らかな日をおくることができな
    い。ねがわくば一日も早く日本と一つにして、あわれな人民をすく
    ってもらいたい」とうったえました。
 不幸にも、そのことが、首里政庁に知られ、四人はとらえられて、波平は死刑、その家族と、外の三人はとなき、けらま等にながされました。
 しかし彼等のねがいは、廿年後には実現せられ、波平の名は宮古の歴史の上にかがやいています。
 農村では一部の富農、村役人の階級、すなわち、農村の特権階級は、首里の開化党のえいきょうがつよく、中には頑固党さえいました。
 しかし一般農民は、悪政をにくむことはなはだしく、松田・伊地知等の官吏がきて、政治の改革を命じたあとは、内心大いによろこび、いつ政府は、われらの苦難をすくってくれるかと、みな、その日をまちのぞんでいるありさまでした。
 島尻地方は、十年来の豊作で、「これはきっと、日本の管轄になり、改革が行われるしるしであると、農民は内々万歳をとなえよろこんでいる」といい、国頭でも「農民は一日も早く、日本の政治になるようにと願っている」ありさまです。
 首里那覇の士族の中にも政庁の考えとはべつに、政府の命令をすなおに受けとり、政治を改革しなければならんと考えた人も少くありません。
 「琉球は海中の小島で、物産が少く、日用品は多く日本品をつかっている。日本をはなれては一日も生活ができない。多くの人がこれを知っていながら反対しているのは、上の方の人、にだまされているにちがいない」といっています。
 しかし、この人、の、同志は人数も少く、わずかに内務省の役人とれんらくし、その保護をうけなければ危険で、活動出来ないじょうたいでした。
 大湾朝功(首里の士族)は、政治のふはいを、実例をあげて説明し、その改革をとなえた文書を松田のもとに出しています。
沖繩の実情は、きまった家柄の者だけが、政治の権をにぎっているが、実はかれらは、人民の血をすうて生きる賊徒である。
 心ある者は政治の改革をねがっても、刑罰をおそれ、うらみをのんで、だまっているにすぎない。「自分は、彼等、人民の血をすう何百人の賊どもににくまれても、自分が今、命をすてるなら、自分に同意する者、全沖繩の平士(下級の士族)から平民にいたるまで、何十万あるかわからない。よって自分は、今、死をかくごし、賊臣の横行を天下に示し、忠義の名をあらわし、名を末代にのこそう」といい、いろいろの悪政をせつめいしています。
 このように、都会も農村も、それぞれ、考えがちがっています。ただ、都会でも農村でも、支配階級は、なるべく改革をまぬかれようと考え、下の階級は、改革を一日も早く実行してもらいたいと考えていました。
 松田は、部下の官吏に命じ、租税その他、政治の内情をしらべさせ、又多くの探偵を方々にだして、人民のようすをさぐらせ、その実情は政庁の役人よりも、かえって、くわしく知っていました。
 彼等は沖繩の政治をつぎのように見ています。「租税は五公五民というが、地頭がいろいろのものを取り立てるので、事実は七公三民になる所もある。全くひどい政治で、気の毒とも何ともいう言葉がない」といい、「わるい役人の多いこと、まるで支那をまねたようで、百姓をぎゃくたいするようすは、実におどろく外なく」、「つまり、毒を百姓にながして、平気でいるさま、なげかわしき次第である」とふんがいしています。
 首里政庁や頑固党は、このような政治をつづけさせてくれと歎願し、政府はこのような悪政は、もはや、がまんがならぬ、といういきどうり(ママ)をもって、対立していたわけです。


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