教室から消えた沖縄の歴史・仲原善忠原著『琉球の歴史』(上・下)を読む~第5章 按司時代の社会と文化①
第5章 三山時代の社会と文化
1、社会の組織
【解説】
書かれた時代が時代だから仕方がないが、「封建社会」という陳腐な用語に史実を無理やりに当てはめようとしているようなので、その語は省いた。そもそも、どの時代、どの国にでも、型にはまった「封建制度」があったわけではないし、日本本土においても、鎌倉時代、室町時代、江戸時代は「封建社会」だとされるが、それぞれシステムは異なっている。マルクスの、実は非科学的な、自分勝手で迷惑な単純化に付き合う必要などない、歴史はもっと素直に見るべきなのだ。
支配者(この時代にあっては按司)が農民をいたわる必要があったというのは、江戸時代の大名が、農村経営に気を使っていたという史実と重なる。ただ、琉球の場合には、このあとで農民は農奴化されていき、自由を失っていくのである。
尚、太字部分は勇み足が過ぎるのでここでは割愛した。
【本文】
按司の時代は、今までのような静かな農村ではなくて、血生臭い戦い時々ありました。
例えば、『宮古島旧史』(1748年)にはこのような記事があります。
「目ぐろもりはお岳を立て、民に神を敬う心を起こさせ、農業を勧めて衣食をあたえ、時に武芸を習わせて威武を示す。そのころは、兵(いくさ)を好んで戦いやむことなし、もし負くればその村をやきはらい、男女一人も残らず殺しその田畑をうばひ取るならいなり」
「目黒盛」は宮古島の按司で、武力で宮古島を統一したと伝えられる人物です。このような武人が、本島にも離島にもたくさんいました。
城内には2~30人ずつの家来、その下に下男下女がいました。家来の仕事は主に租税のとりたて、按司の所有地で働く農民の監督でした。武芸の訓練も行い、いざという時には按司に従って戦に出ます。
すでに社会は支配するものとされる者に分かれてはいますが、はっきりと身分が固定されていたわけではありません。この時代はまだ、百姓から武人や按司に、武人から百姓になることもありました。
租税もさほど高くはなかったと思われます。もし重税を課して人々の反感を買うと、他の按司に打ちまかされる危険があったからです。
この時代はまだ、社会も自由で活気があり、実力のある人は、才能をのばし、人生を切り開くチャンスがあったと思われます。
【原文】
一、社会の組織
按司の時代は、今までのような静かな農村ではなくて、血なまぐ
さいたゝかいも時々ありました。
「目ぐろもり―宮古の一按司の名-はお岳を立て、民に神をうやまう心をおこさせ農業をすゝめて衣食をあたえ、時に武芸を習わせて威武を示す。そのころは、兵(いくさ)をこのんで戦いやむことなし、もし負くればその村をやきはらい、男女一人ものこらずころしその田畑をうばひ取るならいなり」これは宮古島旧史という本(一七四八)の一節です。かような武人が本島から離島まであらわれました。
城内には二・三十人ずつの家来、その下に下男下女がいて、家来どもは租税のとりたて、按司の所有地の農業かんとく、ひまの時は武芸のれんしゅうをやり、いざという時按司にしたがって戦いに出ます。
社会は生産者とこれらの支配者にわかれ封建社会にすゝんでくるが、未だ首里王国時代のような、はっきりした上下の階級にかためられてはいません。いわば職業的の分化で、百姓から武人又は按司に、武人から百姓にとかわることもあります。租税もさほど高くはなかったはずで、もし重税を課し人民の反感を買うと、他の按司に打ちまかされる危険があったからです。百姓のせがれの「あまわり加那」がいつのまにか勝連按司となり、王の娘を妻にし、今少しで王になる所で失敗し(第六章)、察度王もやはり貧しい百姓でありました。一ばんの出世がしらは伊平屋の貧しい百姓であった金丸で、彼はとうとう王となりその子孫は明治までつゞきました。(第六章)
つまり、当時の社会はまだ身分の差もゆるやかで活気があり、一ばん下の者もかなりの自由と才能をのばす希望があり、人生はそれそれ意義ある時代でありました。