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教室から消えた沖縄の歴史・仲原善忠原著『琉球の歴史』(上・下)を読む~第13章 日本の開国

【解説】
 仲原が書いたこの章の意味が全く分からない。まずこれは郷土史を離れて、ほぼ江戸時代の教科書的な外交史をまとめたものにすぎない。しかも、一気に戦国時代から明治維新の入口までをまとめている。史料として提示されたキリシタン大名の印章も意図がわからない。しかも、文中で沖縄とのかかわりが示されているのは申し訳程度である。
 ここに書かれていることは、社会科の教科書を見ればほとんど言わずもがなのことである。あくまでも郷土史を学ぶのは、国史の知識が土台にあることが前提になるので、これをわざわざ書いた意図を測り兼ねる。本土との交流史は島津の侵攻を含めてすでに時代背景と共に語られているし、開国前後の話も14章以下で詳述されている。
 よってここは、後日まとめる際にはほぼ割愛することになると思うので、原文だけを提示しておく。郷土史としてこの章の前後で参考になりそうな個所は太字にしておいた。このプロジェクトでは、郷土史としての沖縄史に焦点を当てたいからだ。

【原文】
第十三章 日本の開国
一、ヨーロッパ人と日本
 ヨーロッパ人が、はじめて日本に来たのは、今から四百年前(一五四三)のことです。
 ポルトガルの船が、種子ケ島(ママ)に漂着し、鉄砲とその製法をつたえました。
     その時の日本は、戦国時代ですから、各国の大名たち(武士のか    
    しら)は、この新兵器を手に入れようとして、ヨーロとハ人をかん 
    げいし、いろいろのべんぎをあたえました。コロンブスがアメリカ
    を発見したので(一四九二)、その時代の二大強国であったスペイ
    ン、ボルトガルはたがいに競争して、航海、探検に力を入れまし
    た。スペイン人は南北アメリカヘ、ポルトガル人はアジアの方にや
    って米ました。まず印度に来て、それからマラッカ(マライ半島の
    西南部)を占領し、貿易と布教(キリスト教)をしました。ポルト
    ガル人はさらにマカオ(中国の南部)にきて、そこから日本に米た
    のが、彼等が印度にきてから、約五〇年あとです。
 沖繩の人は、ポルトガル人より百年も前から、安南、シャム、マラッカ方面と貿易をしていました。
     「彼等は勇敢で、マラッカでは、おそれうやまわれている。彼等
    は誠実をたっとび、うそをゆるさない」と沖繩人のことをポルトガ
    ル人は書いています。
     ところが、ポルトガル人の活動がさかんになると沖繩人の貿易
    は、だんだん、これにおされたのか、一五七〇年(島津進入より三
    九年前)をさいごに、南方へは船を出さなくなりました。

 ポルトガル人の外にスペインの宣教師も来てねっしんにキリスト教の布教をはじめました。織田信長が日本の政治の権をにぎるようになると、信長の保護をうけて、自由に布教し、四・五十万の信者が出来、大名の中にもねっしんな信者が多く出来ました。

01黒田細川大友諸氏のローマ字印

 黒田如水(九州、中津藩主)の印、如水(名は孝高)、クリスチャンネームはシメオン・ジォスイ。SIMEON JOSUI といい、これを印とし、中は信仰のしるしの十字架。
 細川忠興(丹波の藩主)の印、忠興はタダオキTADAOQUIと実名をローマ字でつづり用いた。彼の夫人はクリスチャンネームをガリシャといい、強い信仰の人でした。
 大友宗麟(九州、大分藩主)の印、宗鱗のクリスチャンネームはフランシスコFRANCISCOといい、そのうちの四文字FRCOをとって、印章にしたものです。
 豊臣秀吉の時代には、このましくない宣教師もいたので、秀吉は、彼等の布教をきんじ、宣教師はすべて国外に追放してしまいました。
 徳川家康も、貿易には、ひじょうにねっしんでしたが、布教はきびしく取りしまりました。そのころから、オランダ船が日本にやって来ました。彼等は貿易をするだけで宣教師はつれて来ないので、家康にかわいがられ、ポルトガル人にかわって、もっとも有力な貿易業者となりました。
     秀吉の時代から、日本船も南方に進出し、安南、シャム、マニラ
    などには日本商人の居住者も多くなり、あちこちに日本人町ができ
    ました。
二、日本の鎖国
 徳川幕府はキリスト教の布教だけでなく、その信仰もきんじました。信仰の自由は、この時からなくなります。いかに善良な人でも、キリスト教を信じていれば、それだけで、罪人と見られるようになって米ました。
 九州には、このような信者がひじょうに多いので、領主たちは、きびしく、これをとりしまり、信者とわかったら、えんりょなく死刑を行いました。
  あまりに、ざんこくなとりしまりに一部の信者が島原半島(長崎県)の原というお城にたてこもり、領主に反抗したので(一六三七)、幕府は大軍をくり出して、ようやくこの反乱を平げました(ママ)。
 幕府は、これにおそれて、とうとう外国との交通をいっさい禁止し、いわゆる鎖国をおこないました(一六三九)。
     鎖国というのは日本船が国外に出て行くことをきんじ、すでに外
    国に出ている船も人もかえることをゆるさないというのです。その
    ため南方の国、にいた数千人の日本人はかえって来ることはできな
    くなりました。
     オランダ人には長崎港内に出島という埋立地をつくり、ここに商
    館をおいて貿易させ、中国人だけは長崎で貿易をゆるしました。し
    かし貿易額は二国ともにせいげんがあり、きわめてわずかなもので
    した。
     それからあと、二百余年、日本人が国外に出ることはまったくな
    くなり、欧米各国はもちろんのこと、中国のようすさえも、わから
    なくなります。長崎と沖繩だけが、とざされた日本にたいする二つ
    のまどで、ここから、中国と欧米の情報が、かすかに入って来るの
    です。
 ところが、この二百余年のあいだというものは、ながい人類の歴史の上でも、もっとも重要な時期です。
 イギリスでは、紡績、織物の機械が発明され、大きな工場ができ、機械をすえつけ、労働者をやとって、大量生産をはじめました。さらに、蒸気機関が発明され、これが製鉄、石炭、紡績、織布、汽車、汽船に応用されます。ガスの製造、電気の発見があり、ガス燈、電信、電燈の実用化となり、産業、運輸、交通は革命的変化をとげます。
 これを産業革命といい、イギリスにはじまり(一八世紀の中ごろ)つぎつぎにヨーロッパ、アメリカにおよんで行きました。
     このような、はげしくかわりつつある時代に、日本は、どうであ
    ったかということを考えて見る(ママ)必要があります。
三、欧米人、開国をせまる
 日本が鎖国をして、封建政治のもとに農業と手工業、沿海漁業、国内商業というような経済しかなかったのに、欧米ではすでに政治も産業も近代的なものになっていました。
 機械工業がさかんになり、やすい商品を大々的に生産して愉出し、大きな漁船、商船をつくって、遠洋漁業、海外貿易をおこない、大砲をつんだ軍艦をつくって国防につとめ、国内の政治はだんだん民主主義によって、国民の自由と権利をのばす方向にすすんでいました。
 この新らしい(ママ)時代の先頭に立ったのがイギリスで、その商品を売りこむため日本に開国をせまろうとしていました。
 ロシア、アメリカは、まだイギリスのように工業はすすんでいなかったが、日本に近いので、日本と条約をむすび、交通貿易をおこないたいと考えていました。
 十八世紀の末から十九世紀のはじめにかけて、ロシアの船は北の方から北海道又は長崎に来て貿易をねがい、イギリス、フランスの船は南の方から沖繩方面に寄港し、食糧と水をもとめ、イギリス船は江戸にちかい浦賀に来たこともあります。
 幕府はあわてて大砲をつくったり砲台をきずいたり、諸大名に命じ海岸の防備をさせたりしますが、科学技術は幼稚ですから、外国と戦いができるようなものは出来ません。
 オランダ語のわかる一部の人、の外は、ほとんど、すべての人が開国に反対で攘夷論がさかんでした。
     外国人をけいべつして夷(エビス)といい、それをおいはらえと    
    いうのが攘夷論です。
 一八四四年にフランスの船が那覇に来て、強く開国を要求し、ことわると、一人の宣教師をのこしてかえりました。
 それから二年後にはイギリス船が来て、宣教師のベッテルハイムをおいてかえったことは、あとで述べます。
 日本できびしく禁じているキリスト教の宣教師をおいて行ったので、幕府でもあわてて、薩摩藩の意見をききました。
 薩摩の島津斉彬は当時の人、とは少しちがった考えをもっていました。
 「日本も、いつかは開国しなければならない。しかし、今は反対論がつよいからその時期でない。琉球はこれまで中国と貿易をしているから、欧米の国、と貿易をしてもさしつかえない。ただし、キリスト教は今までどおり禁じたい」と答えています。
 幕府も、これにさんせいしましました。島津は琉球で外国貿易をさせ、その利益を自分の方で取ろうという考えです。
島 津は琉球政庁にたいし、「なるべく、外国人のきげんをそこなわないように、そして運天港で貿易をやり、薩摩の物産とフランスの品物と交換したらどうか」とすすめました。
 しかし琉球政庁は、「貿易はことわりたい、もしことわれなかったら、沖繩の物産で出来るだけのことをしたい」とこたえています。

 それから、しばらくすると。アメリカの艦隊が、とおくの琉球だけではなく、江戸にちかい浦賀にやってきました。
四、日本の開国
 一八五三年の六月三日、ペリー提普にひきいられた米国艦隊(四隻)が、威風堂、として浦賀の沖につきました。
 黒船が来た! というので、江戸市民は大さわぎとなり、今にも戦争がはじまるようなうわささえもおこりました。「太平の、ねむりをさます上喜撰、たった四杯で夜もねられず」という狂歌があったのもこの時です。上喜撰は、お茶の名で、蒸気船になぞらえたのです。外国船を日本人は黒船といっていました。ところが、四隻のうち二隻は帆船で、旗艦のサスクハナ号でさえ二千五百トンの小さい船でした。
 しかし、それまで、日本人は、風にさからって走る船を見たこともなく、まったく、たまげたわけです。
(文頭空白なしママ)アメリカ合衆国は、イギリスの植民地から独立した(一七七六)新らしい(ママ)国です。
 その時代、アメリカの捕鯨船が北太平洋でさかんに活勤しているので、それらの船の寄港地がほしいのと、中国とアメリカ西海岸との交通が多くなったので、てきとうな場所に貯炭所がほしかったのです。
 それで、どうしても日本と条約をむすびたいと考えました。
 艦隊はあとで述べるように、ます那覇にきて、そこでじゅんびをととのえ、浦賀にきたのです。
 ペリーは大統領の手紙を幕府にわたし、沖繩にかえり、翌年はさらに九隻の軍艦をひきいてきて、幕府にだんぱんし、和親条約をむすびました。その条約は下田、はこだて(傍点あり)二港を聞く約束をしたもので、ペリーは那覇にかえると、琉球とも条約をむすぶことはあとで述べます。このようにして、幕府はイギリス、ロシア、オランダとも同じ条約をむすび、二百余年の鎖国のとびらがはじめて聞かれたわけです。
 それから五年後の一八五八年、アメリカの総領事ハリスと通商条約をむすび、はこだて(傍点あり)、よこはま(傍点あり)、神戸、ながさき(傍点あり)、にいがた(傍点あり)の五港で貿易をゆるすことになり、ロシア、オランダ、フランス、イギリス等とも同じような条約をむすびました。
     和親条約は両国が友好的に交わり、船が入ったときには水、燃
    料、野菜などの必要品を売る約束をするだけですが、通商条約は正
    式に大公使を交換し貿易その他のことを取りきめた条約です。
 条約をむすび国を聞いたので、外国との問題はひとまずかたづいたが、国内の問題はかえってむつかしくなり、その後、十年はいろいろの事件がおこり、ついに一八六八年(明治元年)徳川幕府はくずれて、天皇が政治の中心となります。この政治上の大変動を明治維新といいます。
 天皇を中心とする新政府をつくった人はおもに薩(鹿児島)長(山ロ)土(高知)肥(佐賀)の下級士族で、それまで、ながいあいだ命をおしまず、政治改革の運動をして来た人たちです。
 天皇は、まず五ヵ条からなる政治の方針を発表して、封建制度を改め、新らしい(ママ)制度による政治を行う決心をあきらかにされました。それからつぎつぎといろいろの改革を実行せられ、外国の文化を取り入れ、新日本の第一歩をふみ出します。
【問題】
一、あなたのつかっている品物で、機械生産品と、そうでない手工業品をあげてごらんなさい。
二、捕鯨船はなぜ寄港地が必要ですか。
三、鎖国とはどんなことですか。鎖国をしたために、日本にとってどんなよいことがあり、どんな損がありましたか。
四、和親条約と通商条約とどうちがいますか。

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