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教室から消えた沖縄の歴史・仲原善忠原著『琉球の歴史』(上・下)を読む~第9章 島津の進入と大島・沖繩⑤

5、明・清帝国との朝貢貿易

【解説】
 朝貢貿易の実態については、既述なのだが、ここで仲原は繰り返している。削除してしまいたいところだが、構成上不可能なので、最終的にまとめる際に検討したい。前後に飛ぶのはこの人の癖なのか、それとも以前から指摘しているように、口述筆記だったからなのか。この本が使われなくなった口実にはなりそうだ。
 仲原は、朝貢貿易は「特権」だったと書いた。しかし重要なのは、後半部(長くなるので、分割して次回紹介する)で仲原自身が指摘しているように、プライドを捨てたことによる弊害が、今日に至るまで沖縄を支配していることだと思われる。その点についてと、中華思想についての説明が不十分だったので加筆した。

【本文】
 それでは、明・清と琉球の関係はどうだったのでしょうか。沖縄は支那の属国だったのか、それとも対等の独立国だったのか。勿論朝貢国なので対等なわけがありません。しかし、表面上属国のような形をとっているだけで、あくまでも合法的な貿易をするための手段に過ぎません。貢物という名の輸出品を「献上」し、礼儀を尽くす以外の、政治上の権利義務はなかったのです。
 1372年に、察渡が明に初めて使を送って以来250年間、ずっと冊封(さっぽう。さくほう)と、進貢(しんこう)という関係が続いてきました。
 国王が死んで次の王が立って(島津の支配を受けてからは、先にその許可が必要になりましたが)、数年後にと、使をやってお願いすると、先方から正副の冊封使(名高い文人が多かったです)がやって来ます。彼らの乗った船を「お冠船」といいました。下の絵がそれです。

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 お冠船は那覇に入港し、式日には首里城で盛大な儀式がありました。冊封使が「汝(なんじ)を封じて琉球国中山王となす」という皇帝の勅語を読み、土下座をした国王はこれで皇帝から正式に王としてみとめられたということになります。これを冊封と言います。
 しかし、この即位の儀式があるから王になるのではなく、琉球側からお願いをしなければ冊封使は来ないのです。実際、尚純、尚益の二王はこの儀式をやらたかったし、尚寧王は、即位してから18年目に行っています。また、皇帝の側が、即位を認めなかったという例はなく、あくまでも、琉球の王が皇帝に認められているということで、威厳を示すための形式的な儀式だったのです。
 琉球にとって本当に重要なのは、進貢の方でした。こちらは、「唐あちねえ」とオモロにうたわれていることでもわかるように、簡単に言えば支那との貿易のことで、いわゆる朝貢貿易です。
 明も清も「中華思想」の国です。支那の皇帝は王朝に関係なく、古代から自分たちだけが文明国で、他の国々はみな野蛮で未開な国々と見ているので対等な外交はありえませんでした。だから、中華思想を認めない日本やヨーロッパの国々とは、正式の付き合いが長らくできなかったのです。しかし、以前書いたように、へりくだって、「臣」と称して貢物を捧げ持って皇帝に媚びれば、その返礼の品を下賜してくれます。
 支那人は対面を重んじるので、また、皇帝に捧げる品以外の商品も、高い値段で買ってくれたので、10倍、20倍の利益になったのです。プライドを捨てれば、とても有利な貿易ができる、金もうけになったということです。
 琉球から皇帝への進貢品は、馬(40~50頭)、硫黄(24~30トン)、貝殻(夜光貝、子安貝)の外、日本、東南アジアの産物(17世紀にはもうこれはありません)などです。
 進貢船は、現地の物を買って来て、日本へ高値で転売していたので、その時にもまた利益があります。
 進貢は沖縄の義務というよりも、むしろ権利であり、特権だということです。支那側は進貢船がやってくると絶対に赤字になるので、5年に1回とか、10年に1回とか、口実を作って制限しようとしましたが、琉球側が頼み込んで2年1回にしてもらいました。きっと、皇帝のプライドをくすぐったのでしょう。そして尚貞王の時代には、進貢船を迎える名目で接貢船という、事実上の追加の進貢船1艘を出すことを許され、毎年貿易ができるようなったのです。

五、中国と沖繩
 中国との関係はどうなのか、沖繩は中国のぞっこくであったのか、それとも対等の独立国であったのか。表面は中国の属国のような形となっているがこれは貿易をするための手段で政治上の権利義務はなにもありません。
中国にはじめて使をやったのは察渡(一三七二)で、それからずっと冊封(さっぽう)と進貢(しんこう)がつづいています。
 冊封とは何かというと、国王が死ぬとあとつぎが立って王になる(このごろは島津の許しをうけ)。数年のあと、使をやってたのむと中国から正副の冊封使(名高い文人が多い)がやって来る。その人々の乗った船を沖繩ではお冠船といいます。那覇にとまっていて、式日には首里城でさかんな儀式があり、「なんじを封じて琉球国中山王となす」という皇帝の勅語を読み国王は中国から正式に王としてみとめられる。式をやって王としてみとめることを冊封というのです。しかしこの式があってはじめて王になるのではなく、たのまなければ来ないのです。現に尚純、尚益の二王はこの式をやらなかったし、尚寧王は、王になってから十八年目にこれをやっています。又あの王はいけないといってことわったこともなく全く、王が自分のいげんをつけるための儀式です。
 では進貢というのは何か、これが大事なことです、察度がはじめて使をやってからこのころまで二百五十年以上もつゞいた中国貿易(唐あちねえとオモロにうたわれる)の一つの形式です。
 中国はむかしから体面をおもんずる国です。そして中国がその時代はアジヤ(ママ)第一の文明国で、他の国々はみな野蛮未開な国々と見ているから対等のつきあいはゆるさない。それで「臣」と称して貢物をさゝげて行って皇帝にあいさつするのでなければ有利な貿易は出来ないのです。
それで向うを皇帝とたてまつり、こゝは臣と称して品物を献上する。これに対し皇帝から礼物としてりっぱなものを下賜するわけですね。しかしこれだけではない。その船にたくさんの貿易品をつみこんで行くと、向うではこれを高いねだんで買ってくれる。十倍二十倍の利益になる。
 沖繩の進貢品は馬(四五十頭)硫黄(四五万斤)貝殻(夜光貝、子安貝)の外、日本、南洋の産物(このころはもうこれはない)などです。
帰る時は中国の物を買って来て日本へ高くうるからこの時も利益があります。
 こゝで考えなければならないことは進貢は沖繩の義務ではない。むしろ権利、特権なんです。
 中国では金銭上は損になるから、五年に一回でよろしいとか十年一回にしろとか、口実を作って制限しようとするが、こっちはしいてたのんで二年一回にし、さらに進貢船をむかえる接貢船までゆるしてもらって毎年船をだしています。

【イラストのキャプション】
 琉球国王のねがいによって中国から正副の冊封使が来て王の戴冠式を行う。この船を沖縄ではお冠船というた。


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