日本人の大発見⑥ 赤痢菌を発見した化学療法の先駆者・志賀潔
19世紀まで、人類は原因不明の感染症(伝染病)の脅威にさらされていました。しかし、ルイ・パストゥール(仏)、ハインリヒ・ヘルマン・ロベルト・コッホ(独)らの研究により、急速にその正体が明らかになり、治療法が確立していきました。その過程で世界的な業績を挙げた日本人細菌学者もいます。その一人が志賀潔です。
明治3(1870)年、志賀は旧仙台藩士・佐藤家に生まれました。幼名は直吉といいました。戊辰戦争で朝敵となった伊達家に仕えていた父は職を失い、直吉の幼時は経済的に苦しい状態にありました。直吉は8歳の時に仙台藩の藩医であった母の実家である志賀家の養子となりました。明治15年に入学した県立宮城中学では土井晩翠と同級生でした。2人の友情は晩年に至るまで続きます。
その後、志賀は養家の援助で学問の道を進み、大学予備門(後の旧制第一高等学校)を経て、東京大学医科大学(現東京大学医学部)に進学しました。卒業すると、すぐに伝染病研究所(伝研)に入りました。伝研では、わが国の細菌学の第一人者・北里柴三郎に師事し、最初の3ヵ月は北里から細菌学の講習を受けました。大学では講義だけで実習はなかったので、細菌学研究の基礎からの手ほどきでした。志賀は後に、「この3ヵ月の講習で、研究とはいかに厳しいものか、真剣であるべきかを肝に銘じた」と回想しています。
不慣れな臨床の勉強もこなしながら、夢中で研究生活をおくっていた明治30年初夏。、東京で赤痢が流行し、全国的に広がり始めました。この年の6月からの半年で、赤痢患者は8万9千人を数え、2万2千人を超える人が死亡しています。北里は、悪魔のように猛威をふるった赤痢の病原をつきとめるため、志賀をその研究に専念させることにしました。
志賛は赤痢患者の糞便、死亡者の腸内容物を培養して、そこに見られた細菌の集落(コロニー)を虱潰しに検査していきました。そしてその中に、大腸菌とは別種の、未知の桿菌を発見しました。それは、赤痢患者に特有のもので、赤痢の病原体だと思われました。しかし、動物実験では明らかにできず、志賀は焦燥惑に駆られました。
そんなある日、気分転換に図書館で学術雑誌を読んでいた志賀は、ジョルジュ・フェルナン・ヴィダール(仏)の腸チフス菌の凝集反応(いわゆるヴィダール反応)についての論文に出くわしました。「回復期の腸チフス患者の血清に対して、病原菌が凝集反応を示す」というものです。それを赤痢の場合に応用できないかと考えた志賀は、北里に研究方法の指示を仰ぎ、さっそく実験に取りかかりました。
すると、志賀が目をつけた桿菌は赤痢患者の血清に対してのみ凝集反応を示しました。志賀はついに赤痢の病原体を発見したのです。
この年の暮れ、学会誌に赤痢菌の発見が発表されましたが、北里はそれを共著とはせず、志賀個人の業績としました。これはわが国の医学界では珍しいことです。その業績を引っさげて、志賀は明治34年に、伝研第2回留学生としてドイツに派遣され、そこでも大きな成果を残しました。パウル・エールリヒに師事し、トリパノゾーマ病(ねむり病)の化学療法を確立したのです。これは化学療法の先駆けとなるものでした。
帰国後、志賀は師・北里とともに北里研究所の設立に尽力しました。その後も京城帝国大学(現ソウル大学)教授、総長などの要職を歴任し、日本の医学界、教育界に大きな足跡を残して、昭和32(1957)年に85歳の天寿を全うしました。
連載第123回/平成12年10月18日掲載
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