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日本人の大発見⑩ 日本人に夢と希望を与えたノーベル賞第1号 湯川秀樹

 この記事を書いている時点で、日本のノーベル賞受賞者は、日本出身の日本人25人、日本出身の外国籍3人の計28人を数えるに至りました。受賞第1号は、敗戦に打ちひしがれる日本人に勇気と希望を与えた物理学者の湯川(旧姓・小川)秀樹。昭和24(1949)年のことでした。
 明治40(1907)年に地質学者・小川琢治の三男として東京に生まれた湯川は、間もなく父が京都帝国大学教授に就任したので、青春時代を京都で過ごしました。湯川が旧制第三高等学校(現京都大学教養課程)を経て、大正15(1926)年に京都帝国大学理学部に入学した時、父は学部長でした。
 理論物理学を専攻した湯川は昭和4年に卒業した後も、三高時代からの友人だった朝永振一郎とともに無給副手として大学に残り、研究生活を続けました。時あたかも「量子論」がエルヴィン・シュレーディンガー(オーストリア)らによって確立され、理論物理学の世界は新しい発見により活気に満ちていました。
 原子よりも小さな存在はありえないはすが、原子が素粒子という小さな単位で構成されていることか明らかになりました。長岡半太郎が提唱した土星型の原子模型に示されるように、プラスの電荷を帯びた原子核の周囲を多数の電子が回っていることは確認されていましたが、さらに昭和7年にはジェームズ・チャドウィック(英)が、原子核の中にプラスの電荷をもつ陽子の他に「中性子」を発見しました。
 当時、この中性子が世界の物理学者の頭を悩ませていました。電荷をもたない中性子が原子核の中でなぜ存在可能なのか。さらには、なぜ陽子であったものが中性子に、中性子であったものが陽子に変化するのか…。大阪帝国大学に職を得て、学生に物理学を教える立場になっても、場川の脳裏からその謎が消えることはありませんでした。
 昭和9年、東京帝国大学で聞かれた日本数学物理学会で、数年間の謎解きの成果を湯川は発表しました。そこで湯川は、陽子と中性子の関係を説明するために、未知の素粒子の存在を予言しました。それは陽子と中性子の間を行き来しており、陽子が中性子にその素粒子を放つと、そごにプラスの電気が移り陽子が中性子に変わる。素粒子を受けた中性子は電気を受けて陽子となる。これが陽子と中性子を離れなくしている原因であり、その素粒子の大きさが陽子と中性子の中間ぐらいの大きさだと予測されたので、湯川はその素粒子を「中間子」と名づけました。
 実際にそれが発見されるまで、湯川の学説はあまり注目されませんでしたが、昭和12年にカール・デイヴィッド・アンダーソン(米)が宇宙線の中に未知の素粒子を発見し、その10年後にセシル・パウエル(英)らが、それを湯川のいう中間子だと確認しました。にわかに若き物理学者・湯川秀樹の名は、世界に轟きました。
 ノーベル賞受賞を記念して作られた京都大学基礎物理学研究所の所長となった湯川は、間もなくアルベルト・アインシュタインらとともに核兵器廃絶と世界平和の実現のための運動を始めました。物理学の成果が、原子力発電などの平和利用以外に、核兵器を生み出したことが、湯川には耐えられなかったのです。その後、昭和56年に74歳で亡くなるまで、湯川は物理学者の立場から、世界平和を訴え続けました。

連載第127回/平成12年11月15日掲載

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