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教室から消えた沖縄の歴史・仲原善忠原著『琉球の歴史』(上・下)を読む~第6章 王国の成立③/第7章 王国の政治①

第7章 王国の政治
1、尚円の革命

【解説】
 琉球王朝の中興の祖・尚円の登場である。そして例によって、仲原の筆は、話が前後するのでそれを整えた。王に仕える前の金丸については、章をまたいで次章第7章に登場するので、時系列的にまとめる必要を感じ、尚円王の登場から後を第7章とし、大幅に整理した。
 また、筆者自身が理解するために説明が必要な部分が多くあり、かなり書き足した。尚、第6章末の「問題」については、歴史理解の上で余り意味のない質問だったので、全面的に書き換えた。

【本文】
 泰久王は護佐丸・阿麻和利の乱を鎮圧した後は、穏やかな政治を行いました。深く仏教に帰依し、天界寺(首里にありましたが、戦災で焼けました)など多くの寺院を建立しました。1458年には万国津梁の鐘を造らせて首里城正殿に懸けさせました。この鐘は国の重要文化財に指定され、現在沖縄県立博物館・美術館に展示されています。日本と明からもたらされた文化により海洋国家として繁栄する琉球が、仏教により守られるという願いを込めた銘文が刻まれています。
 1461年に泰久が亡くなると、王子の尚徳が20歳で即位しました。尚徳王は自ら2000人の兵を率いて二度も喜界島に遠征し、それを琉球王国の領土としました。国王が親征するのは、祖父である尚巴志王以来のことでした。しかし、無謀な遠征などの悪政が重なり、家臣の心は王と王家から離れていきました。29歳で王が亡くなると、クーデターが起こりました。
 このクーデターで推戴されて即位し、尚円王と名乗ったのが金丸でした。
 金丸は、伊平屋島の貧しい農家に生まれました。金丸の「丸」は護佐丸の「丸」と同じで、愛称だと思われます。本土でも牛若丸、森蘭丸などの例があります。王名の「円」は「丸」から取ったと思われます。
 父母が亡くなった20歳の頃、妻と弟を連れて故郷を離れ、追われるよう国頭にやって来たました。余所者として数年間暮らした後、27歳の時に首里に出て来ました。そこで後に尚泰久王となる越来王子に見い出され、王の家臣に推薦されました。王家に仕えるようになり、わずか10年前ほどで高い位の役人になって、泰久王が即位すると、西原の内間に領地を与えられました。本土で言え、貧農から大名にまで出世したことになります。
 金丸は1459年には、外交、貿易を取り仕切る御物城御鎖側官(おものぐすくおさすのそば)となりました。
 当時外国船が沖縄に来たり、沖縄の船が海外に出て行く時の便宜を図るため那覇港内に御物城を築いて倉を建て、貨物を蓄えていました。この役職ははその責任者で、貿易、外交を取り仕切る仕事です。後には礼式などのも司るようになります。
 泰久王の全面的な信頼を得た金丸は、王の片腕として、相談役として働きました。重要な政務のことはすべて金丸に相談していたと言われます。しかし翌年、王が亡くなり、尚徳王が即位すると、金丸は王を勇めることが多くなり、引退して内間に引きこもりました。
 王の死後、王子尚志義が即位するのは当然のことですが、当時まだ7~8歳の子供でした。亡き王の行状もあり、志義を立てることには反対の重臣が多いが、これをいい出す勇者はいませんでした。そこに現れたひとりの老人が前国王の悪政を非難して、「人々は彼の滅びる日を待っていたところである。早く王子を殺して、徳の高い金丸を立てるのがよい」と金丸を推挙したのです。広い庭一杯にあふれていた人々は歓声を挙げて賛成しました。
 王宮に勤めていた人々はこれに驚いて、東西の門から我先に蜘蛛の子を散らすように逃げ去りました。王妃や乳母は尚志義をつれて城内の真玉城に隠れましたが、武士たちに探し出されて殺されました。
 そして、金丸は内間から首里に迎えられて即位し、尚円王と名乗りました。第二尚氏王朝のはじまりです。
 このクーデターには別の物語も伝わっています。
 尚徳王が久高島の御嶽に参詣に行っている留守に革命勢力が王城に乱入し、王妃と王子を殺し、城内で新王の選挙を開いたと言います。この時、金丸と通じていた泊村の老人安里大親が神がかりして金丸を推戴し、一同の賛意を得ました。王は久高島から帰る舟の中でこれを聞き、海に身を投げて死んだというものです。また、捉えられて自らが征服した喜界島に流されたという話もあります。
 琉球の正史『中山正鑑』には、尚徳王は亡くなったとしか書かれておらず、いずれも伝説の域を出ません。ただ、それまで第一尚氏王朝に使えてた人たちの多くは、地方に逃れて百姓になり、そして今度は伊平屋島の百姓の子が王となったということだけは確かなようです。
  尚円王は、御物城御鎖側官をしていたので、外国との貿易や雛島のこともよく知っていたはずです。またそれまでの王が忘れていた、社会の平和ということも身に染みて知っていたことでしょう。第一尚氏の内部の争いも知っており、また、護佐丸・阿麻和利の乱の時にはすでに王の近臣になっていたので、そのような反乱が起こらないように政治を改めていきました。

【問題】
一、尚巴志が統一国家を作るまでの流れをまとめてみましょう。
二、第一尚氏王朝の歴代の王の事績を調べてまとめまてみましょう。
三、万国津梁の鐘の銘文について、詳しく調べてみましょう。

【原文】
三、尚円の革命
 泰久王はこの反乱のあとしまつをし、天界寺その他の寺をたておだやかな政治をしているが在位七年で死に、次の尚徳は廿歳の若者で、自ら兵をひきいて二度も喜界島に出かけ、その政治はすこぶるらんぼうで、国民からきらわれました。廿九才で王が死ぬと城内に革命がおこり、彼の子供をころしお鎖(さす)の側という役人をしていた金丸を王におし立てました。尚円王がこれでこの王家を第二尚氏といいます。       
     この革命についても二説あって、王が死んだのであとつぎにつき
    王宮で会議がひらかれた。七・八才になる王の子供を立てることに 
    は反対の人が多いが、これをいい出す勇者はいませんでした。
     ところがどこから来たのか一人の老人があらわれ、先国王の悪政
    をひなんし国民は彼の亡びる日を待っていたところである。早く世
    子をころして徳の高い金丸を立てたがよいとのべたので、広い庭一
    ぱいにあふれていた人々はかんせいをあげて賛成しました。王宮に
    つとめていた人々はこれにおどろいて東西の門からわれ先にと逃げ
    さり、まるでくもの子をちらすようでありました。王妃や乳母など
    は七・八才の王子をつれ城内の真玉城にかくれたが、武士どもにさ
    がし出されてさしころされた、という話です。
     今一つの話は、王が久高島のお岳に参詣に行っている留守に革命
    党が王城に乱入し、王妃・王子をころし、さっそく城内で世の主
    (王)のせんきょ大会をひらいた。この時、金丸と交わりをむすん
    でいた安里大前が神がかりして金丸をすいせんし、みんなの賛成を
    えた。王は久高から帰る舟の中でこれをきゝ海に身をなげて死んだ
    という。面白い伝説ではあるがいろいろのむじゅんがあり信用出来
    ない話だと思います。いづれにしても伝説です。
     この時まで王につかえでいた人々(貴族高官)は、多くいなかに
    のがれて百姓になり、今度は伊平屋の百姓の子が王になり、彼れに
    ついた人々が貴族になったわけです。
【問題】
一、沖繩に一つの王国が出来るまでの順序を話してごらん。
二、農業をはじめてから王国が出来るまでどの位の年月がたっていますか。
三、部落の時代から王国まで各時代の文化のとくちょうをあげなさい(或るべく文章にかくこと)。

第7章 王国の政治
一、文官の王、尚円
 革命によって王となった尚円は、武力をもった按司ではなく考え方のこまかい文官でありました。彼は伊平屋島のまずしい農家に生まれ、父母の死後妻と弟をつれ、国頭にやって来たのが二十歳の時で、そこに数年おり、二十七歳の時に首里に出て来ました。
 そして、尚泰久王(その時は越来王子)にやとわれた。王子は金丸と同年であるが、かれの人物をみこんで王の家来にすいせんしました。泰久が王となるに及んでますます信用され、四十五才の時に「御物(おもの)城(ぐすく)御鎖側(おさすのそば)」というおもい役につき、りっぱな成績をあげ、大事な政治のことはすべて金丸にそうだんしていたといわれます。
 泰久の死後、わかい尚徳につかえたが、わがままなことばかりするので、職をやめて内間(西原村)に引っこんだ所が、翌年革命がおこり王になりました。五十五才の時です。
     彼の名は金丸というが、王名は尚円といいます。かな丸の丸は護
    佐丸の丸とおなじで日本でも牛若丸・森蘭丸などがあり愛称だとい   
    われます。王名の尚は姓で、円はまる即ち丸からとったのでしょ
    う。
 尚円王は、第一尚氏の内部の争いも知っており、又護佐丸、あまわりの乱の時にはすでに王の近臣になっているから、これからこのような反乱がおこらないように政治のやり方を改めて行きました。
 尚円王は「御鎖の側」をやっていたから外国貿易及び雛島のこともよく知っていたはずで、又前代の諸王がわすれていた社会の平和ということも心にしみて知っていたはずです。
 御鎖側はどういう役か。諸外国の舟が沖繩に来たり、沖繩の舟が出て行く時の便利をはかるため那覇港内に御物城をきずき倉をたて貨物をたくわえました。御銀側はその係り官でいわば貿易外交をつかさどる役です。後には礼式などのこともつかさどるようになります。

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