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『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』

「マリオが好きか?」と問われたら、どのように答えるだろう。おそらく私は「嫌いじゃない」と答える。

2023年4月28日、映画『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』が公開された。マリオは馴染み深いキャラクターだが、ものすごく思い入れがあるわけではない。マリオのゲームを語ることはあっても、マリオというキャラクターを語ることは多くない。そもそも彼がどんな人物なのか、考えてみればよく知らない。

マリオブラザーズはスーパースターではない

「マリオとルイージの職業は配管工」––この設定はゲームをある程度遊ぶ人にはよく知られている。映画の冒頭でも彼らの職業が手短にわかりやすい形で示されるため、もしこの設定を知らない観客が居てもすぐ受け入れられるはずだ。赤と緑のオーバーオール姿は誰がどう見ても有名なマリオ兄弟そのもの。横スクロールアクション風のゲーム的な演出まで入り、広く世に知られたイメージを見せてくれる。ところがすぐに、映画の中のマリオ兄弟はどうやら私が知っている彼らとは少し違っているらしいことがわかってくる。
まず、彼らには家族がいる。ゲームでは影もかたちもなかった両親や祖父、叔父などが登場し、大所帯で同居しているのだ。マリオ兄弟は物語が始まる少し前、勤務していた工務店から独立して「スーパーマリオ配管会社」を立ち上げたものの、事業はなかなか軌道に乗らない。家庭ではどこか居心地の悪さを感じつつ、目下売り出し中の身。見た目こそゲームと同じだが本作のマリオ兄弟はまだ「スーパー」を自称しているだけだ。おまけにマリオはキノコ嫌いときている。

マリオのアイデンティティ

ブロックを叩くとコインが出る、キノコを取ると大きくなる、敵を踏みつけて倒す。こうしたゲームにおけるマリオの設定はプレイヤーにゲーム世界を楽しませるために個別に用意された記号だ。彼らが配管工をしているのも、ゲームのギミックとして土管が重要だからで、それらに物語上の理由は求めようがない。
しかし、そういったゲーム側の設定こそがゲームとしてのマリオだけでなく、マリオたち自身のアイデンティティをかたち作ってきたのもまた確かだ。「マリオの映画が製作中」と聞いてから、こうしたあまりにもゲーム的な要素がどう繋がりをみせるのか予想だにできなかったし、旧劇場版『スーパーマリオ 魔界帝国の女神』のようなものが現代に出てくるとも思えなかった(私は好きだが)。

楽しむのに資格はいらない

だが、果たして本作は予想以上に万人が楽しめる映画になっていた。
ゲームでキャラクターやアイテムが持っていた特性は変えずに、マリオたちはパルクールに近いアクションでスクリーンを飛び回り、記号的なキャラを脱したマリオとピーチの関係性は、単に救う・救われるではないものに変化した。現代の若者を感じさせるピーチの口調など、2023年現在の私たちとの繋がりを強く感じさせる気配りが全体にみられた。
たしかに、マリオへの造詣が深い観客に対する小ネタや、高年齢層向けの演出が目立つシーンもままある。しかしその一方で、そういった文脈を知らずともマリオとルイージの兄弟愛やドンキーコングとの友情など、普遍的な要素を軸としてマリオたちの成長物語が描かれているため、予備知識はなくとも誰でもそれなりに楽しく観られるようになっている。
この「誰でもそれなりに楽しく」というのはまさしくゲームとしての「マリオ」がやってきたことと同様で、言葉にすると月並みに聞こえるが、実際にはかなり難しいことだ。映画の中には相当にマニアックな要素も仕込まれていたが、だからといってそれが原因で置いてけぼりを食らうようなことはない。この懐の深さはゲームのマリオシリーズとも通ずる。映画を観た体験とゲームを遊んだ体験は当然異なるはずだが、本作を観た後の充足感はマリオをクリアした時の感覚に似ている。
そうした点から本作を「観るゲーム」と評する向きもあるが、私はその表現にやや違和感を持つ。なぜなら本作はゲームとしての『スーパーマリオブラザーズ』を映画化したのではなく、ゲームをルーツに持つ「マリオブラザーズ」というキャラクターを映画化した作品だと思うからだ。ゲームと同質に思えた充足感とは、マリオブラザーズというキャラクターが担保する作品への信頼感なのではないだろうか。彼らはゲームのキャラクターとしてあまりにも象徴的な存在だが、マリオブラザーズにとってはゲームとアニメの境などもはや関係がなく、観客が誰であるかを選ばない。

この土管は観客の記憶につながっている

この映画はマリオブラザーズがスーパマリオブラザーズになるまでの神話を語っている。土管、キノコ、コイン、ブロック、スーパースター、2 PLAYER GAME。互いに関係の無かったマリオの象徴たちが星座のように繋がりあい、その関係性から本筋の物語が見出されている。そこにビデオゲームとしてのマリオシリーズが辿ってきた道のりが重ね合わせられることで、観客ごとに異なる容貌を持ったそれぞれのマリオ像が映し出される。ゲームを知らない人にとってはマリオ兄弟の冒険と成長の軌跡が強く見て取れるだろうし、ゲームを知る人にはマリオシリーズの歴史が際立って見え、自分とマリオの間に関係を結んでいくのだろう。

劇場では上映中も上映後も、子どもたちがマリオたちについてあれこれと声をあげていた。大人は言葉少なだったが、彼らにとってマリオとは何なのか、無性に気になった。

私は本作を観て、自分の中にあるマリオ像が掘り起こされた感覚があった。それは何ら新しくない、つねに傍にあったが埋もれていたものだ。いまでもマリオは「嫌いじゃない」存在で変わりないが、過去には私も「マリオが好きだ」と言っていたような気がする。もしかしたらそう思いたいだけなのかもしれないが、そう思わせてくれるほどこの映画は影響力が大きかった。
『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』はマリオ The Beginingでもアナザーマリオでもない。マリオと人間のこれまでの歩みを総括する一冊のアルバムのような作品だった。


『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』公式サイト

「スーパーマリオ配管会社」企業サイト

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