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【しんでしまうとは なにごとだ!】『龍が如く8』を語るつもりで桐生一馬を語る。

割引あり

※ネタバレあり

『龍が如く8』は2024年1月26日にセガから発売されたゲームソフト。ジャンルは「ドラマティックRPG」。

本作は日本の繁華街を舞台に、ヤクザ映画のような世界観をゲームで表現し続けてきた「龍が如く」シリーズの最新作だ。『龍が如く6 命の詩。』までは伝説の元極道・桐生一馬を主人公としたアクションアドベンチャーとして製作され、続く『龍が如く7 光と闇の行方』からは主人公を春日一番に交替、ゲームジャンルもRPGに様変わりしている。

本作ではシリーズで初めて海外であるハワイを舞台とし、桐生と春日、新旧ふたりの主人公が交叉するストーリーとなった。長年主人公を務め上げた桐生一馬は癌に侵され余命幾ばくかの状態にあり、いわば本作は彼と、彼の紡いだ「龍が如く」シリーズの締めくくりとなる一作である。

今回の記事では『龍が如く8』の概要、そして「龍が如く」シリーズとその顔であった桐生一馬について書いていく。

‐あらすじ‐
前作『龍が如く7』から4年後の横浜・異人町。かつて宿無し・職無しのどん底から這い上がり、人々を救った春日一番。現在はハローワークに勤務し、周囲から「ハマの英雄」と慕われていた。春日は通常の業務の一方で、前作の極道組織の「大解散」によって職にあぶれた元ヤクザたちに対し、まっとうな社会復帰ができるよう、仲間である足立と協力して仕事を斡旋していた。
そんなある日、春日の社会復帰支援の様子が、悪意を持った編集がなされた動画となり、人気Vtuberの手によってネット上に拡散、炎上を起こす。春日たちは職場を追われることになり、社会復帰支援も滞る。やがて春日は、社会復帰をするはずだった元ヤクザたちが、極道組織・星龍会に流入していることを知る。真相を知るべく星龍会本部に乗り込んだ春日たちは、そこで星龍会の現トップ・海老名と出会う。海老名は、かつての春日の兄貴分で四年前に死闘を繰り広げた沢城丈を春日と再会させる。沢城は、それまで死んだとされていた春日の母・茜がハワイで生きていることを伝える。そして春日に茜と再会してくるよう願い出るのだった。

前述したとおり、本作の主な舞台はハワイだ。春日は母を訪ねて、桐生はエージェントとしての任務、そしてかつて愛した女性・由美との誓いを果たすためにハワイを訪れている。ふたりはハワイで出会ったのち、中盤までは共に行動、以後ストーリー展開に合わせて主人公が切り替わり、ハワイと日本(伊勢佐木異人町、神室町)で両主人公それぞれの戦いが繰り広げられる。本来、元・極道の養護施設経営者だった桐生が、なぜエージェントとなったのか。その経緯と活躍は一作前の『龍が如く7外伝 名を消した男』で描かれている。

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「龍が如く」シリーズは繁華街での遊びにフォーカスしたゲームだ。
例を挙げるとキャバクラ、ゲームセンター、カラオケ、ポーカーなどがあり、こうしたゲーム内ゲームやミニゲームといった「プレイスポット」が氾濫した街中を歩くことも楽しみの一つである。
主な舞台がリゾート地であるハワイになったこともあり、一見しただけでも雰囲気は明るくなり、プレイスポットの一部もこれまでとは幾分様変わりした。

とはいえ、街に散らばるイベントや遊びを少しづつ楽しみながら、メインストーリーを進めていくというシリーズの基本的な流れは踏襲されている。プレイスポットとしてのキャバクラは登場しないものの、本作では似た要素として「マッチングアプリ」が登場し、実際のマッチングアプリをかなり戯画化した体験ができる。

また、シリーズでは過去のセガのタイトルが作中でプレイできるようになっているのが恒例化しており、これまで移植に恵まれなかったアーケードタイトルが初移植されることも注目の的となっている。本作では格闘アクションの『スパイクアウト』、体感型フィッシング『ゲットバス』、3D格闘ゲーム『バーチャファイター3tb』を収録。

特にアーケード版『スパイクアウト』は初移植タイトルであると同時に、その操作系やアクションのコンセプトは初代『龍が如く』の戦闘システムとも軌を一にしており、製作スタッフも共通する。このセレクトはシリーズの記念碑的な趣のある本作にとってこれ以上ないものといえるだろう。

プレイスポットはいまあげたもののみに留まらない。これまでのシリーズでは都市型の娯楽が大勢を占めていたが、今作ではハワイが舞台ということもあり「ドンドコ島」という島を開拓していくサバイバルクラフト&経営シムモードが搭載されている。ドンドコ島はかつてリゾート地として栄えたが、ゴミが流れついたり、不法投棄によって寂れてしまった島だ。ひょんなことからこの島に関わった春日は、この島にかつてのような景観と観光客を取り戻すべく、不法投棄を繰り返す業者を退治したり、DIYで施設を作ったりしながら、島の発展を目ざす。

バトルは『7』で採用されたターン制コマンドバトルを引き継いだ「新ライブアクションRPGバトル」。敵とのエンカウント地点がそのままバトルフィールドとなり、周囲にあるオブジェクトを用いて攻撃したり、攻撃方向にいる味方と連携を行ったりと、位置関係が重要な要素となっている。

基本的には前作から大きく変わる部分はないものの、戦闘バランスや動作の快適性は大きく向上している。一定範囲の移動に加え、オブジェクトを蹴り上げた際のダメージ上昇、連携パターンの増加、攻撃動作の高速化など、プレイヤーが能動的に戦略を組み立てられるようになり、攻撃に大勢の敵を巻き込むことでボーリングのピンのようになぎ倒せるなど、爽快感という面では前作より進歩している。

ただし欠点も存在する。その場がシームレスにフィールドとなるために、攻撃時にキャラクターが引っかかって迂遠なルートを経由したり、それゆえ戦闘が長引いてしまうことがある。また戦闘そのものではないが、ゲーム中レベル上げを強いられる場面とそれにかかる時間が前作よりも増えている。これらは個人的に目をつぶれる点ではあったが、改善が見込まれる部分だ。

なお、今作の戦闘においては桐生は唯一無二の特性を持ったキャラクターとして扱われている。彼は他のキャラクターと異なり、戦闘中の3種のスタイルチェンジや固有動作であるヒートアクションを持つ。極めつけはゲージが溜まった状態で使用できる「覚醒」だ。ひとたび実行すれば一定時間コマンド選択から往年の「龍が如く」のようなアクションバトルへと変貌し、一方的に暴れ回ることができる。

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大前提として「龍が如く」シリーズは「ヤクザ」を題材としたゲームだが、本作ではそこに宗教とが重なっている。そしてゲーム全体には「ゴミ」というテーマが横たわる。主人公たちに課せられたテーマをざっくり言えば、春日は「親探し」であり、桐生は「自分探し」だ。

宗教については架空の宗教団体「パレカナ」が登場し、ストーリーに関わる。パレカナは児童福祉施設を経営するほか、社会的弱者に対してフードバンクを提供しており、春日の母・茜も職員として身を寄せていた団体だ。

ラニと茜

茜は春日がハワイに到着した時点で行方をくらましており、彼女の行方を捜すことがゲーム中盤までの目的となる。彼女が身を隠したのは、パレカナのトップにいる男「ブライス・フェアチャイルド」が、「ラニ」という少女の命を狙っていることが理由だ。

ブライスは裏ではハワイ社会を牛耳っており、聖人を思わせる見た目とは裏腹にその内実はマフィアだ。彼は大昔、本来パレカナの運営を継ぐはずだったラニの一族を殺害し、継承権を簒奪した過去を持つ。以来代表として君臨しているが、自身の立場の正統性を揺るがしかねないラニの存在を消し去ろうとする。

桐生一馬の愛した女性・由美の娘である澤村遥

このブライス率いるパレカナとラニの構図は『龍が如く』での東城会と澤村遥の関係に近しい。両者が同一視されることは作中でも明示的に描写される。桐生はラニのことを知った際にはその境遇に遥の姿を見出していたし、ブライス自身最終局面で宗教もヤクザも集団の原理に基づき人を支配し支配されることが同じだと発言している。

本作のラスボスはふたり存在する。ひとりがブライスで、もうひとりが宗教と同列に語られるヤクザのトップ・海老名だ。彼とブライスはビジネスパートナーとして結び、パレカナの所有する孤島「ネレ島」に、日本を含む世界中の政府からゴミ、主に原子力発電所から出た核廃棄物を集積することで対価を得ることを画策する。海老名が言うゴミとは核廃棄物だけではなく元ヤクザたちも含まれている。彼らは廃棄物処理の作業員としてネレ島に送り込まれ、人目の付かない場所に廃棄されるのだ。

海老名はブライスのように支配の原理を利用してはいるが、内心ではヤクザとその行動原理を心底憎んでいる。海老名にとってビジネスで巨万の富を得ることや、権威を得ることは手段でしかない。彼はひたすら自身の憎悪の対象としてヤクザを処理することを望んでいる。そこに合理的な目的はなく、そのことを自覚しながら計画を進めている。

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春日が「親探し」をするのは必ずしも自分のためではない。むろん産みの母とあれば、ひと目会ってみたいという気持ちも生じるのもおかしくはない。ただ春日は基本的に他人の望みに対して自分が動くというスタンスを取り続けており、自分が母に会いたいからという感覚とは一定の距離を保っている。

作中で何度も繰り返されるが、彼を突き動かしているのは渡世の父である荒川真澄への恩義と、沢城が春日に向けて頭を下げたことのふたつが大きい。また彼にとっては自身の出生がいかなるものであれ「春日一番」であることは何も揺るがず、もはや極道ではなくなった自己への問いも前作の時点で答えが出ている。

一方で桐生の「自分探し」は、桐生自身のためになされる。これは桐生一馬が作中世界であまりにも無私であり、自分に頓着せず捨て身に生きてきたからこそ生じた問いだ。そもそも桐生が癌になったのは、放射性物質の処理施設の事故現場で、他者を助けようとしたことが遠因だと仄めかされている。

彼自身はシリーズが重なるごとに膨れ上がっていった「堂島の龍」という伝説を否定しようとしてきた。だが自身の死期が近づく本作では、いよいよ自分がなんだったのかを考えざるをえなくなる。作品外の事情を汲むと、初期の「龍が如く」における桐生一馬とは「ヤクザものの主役を張れる格好いい・強い男」を体現する、器だけのキャラクターだった。

だがシリーズを経るにつれて、「堂島の龍」とは異なるアイデンティティが蓄積されていった。不器用で、嘘がヘタで、どこか抜けていて、子供たちから慕われるおじさん。キャバクラに通い、カラオケではしゃぎ、タクシードライバーで、ポケサーに熱中し、ゾンビを撃ち殺し、ゆるキャラに扮する。メインとサブ両面で多様な面を見せる桐生の人格は、「龍が如く」というゲームを象徴するように街や人々、そしてプレイヤーにまで拡散し、宿っている。

だから本作では桐生は街に繰り出さなければならない。人に会わなければならない。名を消した男が再び「桐生一馬」を名乗るためには、自身の内側のみならず外側へ問いかける必要がある。プレイヤーはゲームをプレイする。桐生は自らの生きる世界で思い切り遊ぶ。そのことで両者は桐生一馬を知っていく。

これまでの桐生は多くのことをひとりで背負い込んできたが、本作はパーティを組んで行動するRPGだ。本作の桐生には新しい仲間たちがいて、桐生を古くから知る人物たちも彼の自分探しを全力で支えようとする。

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街を歩いている最中に発生する「パーティチャット」や、食事後に発生する「宴会トーク」は仲間内での雑談だ。パラメーターの上ではこれらを見ることでパーティ内での「絆」が上昇し、戦闘での仲間との連携に作用する。雑談で繰り広げられるのは「好きな寿司ネタ」のような非常に他愛のない話で、メインストーリーとはほとんど関わらない。

同じようなシステムを持ったRPGとして「テイルズ」シリーズがあるが、そちらも本作と同様に他愛のない話で人物を深掘りするものがある一方で、メインストーリーに関わるものも数多い。この点「龍が如く」は、メインストーリーについての話題をほとんどイベント中に配置している。

基本的にこのシリーズはメインストーリーという目標がある一方で、箱庭の街に配置されたアトラクションを楽しみ、散策させることに重きを置いている。対して「テイルズ」シリーズはひとつなぎの時間での旅を体験させている。両者の話題が異なる原因のひとつにもこうした違いがあり、サブストーリーとメインストーリーにおける「桐生一馬」の人格・イメージが統合されていなかったのは時間や状況の隔たりにあったともいえる。だが、こうした一側面の集まりが桐生一馬という人物の人間味を担保しているのだ。

一方で、桐生一馬個人にフォーカスし、よりメインストーリーやテーマに近いものとなっているのが「エンディングノート」だ。作中では、桐生の身を案じた仲間のナンバが提案したもので、現実には生前の自分についてや没後の希望などを書いておく、法的効力のないライトな遺書である。ゲームシステムとしては街の散策中に桐生が過去シリーズの思い出を振り返る「追憶ダイアリー」、かつて桐生とゆかりのあった人物たちの姿を垣間見る「エンディングドラマ」、報酬のある実績要素「未練ミッション」といった形で取り入れられている。

「この世界との絆はまだ脈々と息づいている」柄にもない伊達の台詞が本作の桐生を象徴する。本作は「絆」という言葉を用い、ゲームシステムにも取り入れる。この言葉は日本のRPGではよく見られるが、近年ではある種の思想と危なっかしさも帯びはじめた。

とりわけ「エンディングドラマ」は本作の桐生にとっては重要な意味を持つ。「エンディングドラマ」の仕掛け人は『龍が如く』から長らく桐生と関わってきた刑事・伊達真だ。彼は桐生と深い付き合いにあった人物たちを神室町や異人町に呼び寄せることで、正体の明かせない桐生に成り代わって桐生についての話題を訊く。そして桐生はその様子を遠くから伺うことで間接的な再会を果たすというイベントだ。あるイベント後の「自分の葬式の参列者の話を盗み聞きしてるみたいだった」という桐生の発言はまさしく的を射ている。

『龍が如く6』以降、桐生は表向きには死んだことになっている。彼は関わった人々に大きな影響を与えているが、本作での桐生は名を名乗れないことに加え、死期が近いことへの諦観ゆえか、自身の及ぼした良い影響に対して目を向けようとしない。そんな中「エンディングドラマ」に登場する人物たちは忌憚のない桐生一馬の像を語る。それは自身だけでは知りえない「自分は何者で、何ができたのか」という問いへの重要なヒントとなる。

こうして桐生は少しづつ自分を形作るものを知っていく。だがそもそも仲間たちが彼を支えようとすること自体が、桐生一馬が何者で何ができたのかを表している。

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本作のラスボス戦は、主人公たちとの因縁の対決から若干外れたものとなっている。桐生はラニを狙うブライスに対し強い怒りをみせていたが、ブライスとは春日が決着をつける。そして春日の異母兄弟であることが明かされた海老名とは桐生が戦いに臨む。カットシーンでブライスは世界の厄介ごとを引き受けることの正当性と蓄財について語り、海老名は自身の境遇からくるヤクザへの憎悪と復讐の経緯を語る。こうしたラスボスの動機は既に「龍が如く」シリーズをプレイしたプレイヤーにとってはある種の既定路線であり、それほど目新しさはない。

ブライスが行う核廃棄物の投棄は、まともに考えれば相当危険で、これまで登場した悪役の中でも人や社会に与える影響が最も大きい悪事といえる。だがその悪事の重大さとは裏腹に、傍からみればブライスにそれほどのカリスマ性はそれほど感じられず、非常に矮小な俗物にみえる。
先述の通り、彼の主張は「ヤクザと宗教は同一で、また社会にとって必要悪だ」というものだ。その点では春日も同じ穴のムジナであり、4年前に「グレーゾーン」にある人々を守ろうとしたこととなんの違いがあるのか。ヤクザもパレカナも困窮者に衣食住を提供し、仕事を与える。そこから生まれる信仰あるいは忠義によって保たれる構造はたしかに同一にみえる。だが、春日はそれを詭弁であると一蹴し、ブライスが躍起になってラニを亡き者としようとする臆病さを指摘する。

海老名の動機は言うなればルサンチマンといえる。復讐を周到に実行しているようでその信念のねじれを紗栄子に見抜かれるなど、強い意志があるようで妥協が強調されるような演出がなされている。荒川真澄の元婚約者の子である海老名にとって、ヤクザとは唾棄すべきものである。だが親への思慕、困窮、無縁が復讐の動機を生み出したのであれば、皮肉にもその行動原理はヤクザと同じ轍を踏んでいる。

彼は自身が困窮した時点ではヤクザには頼らず、独力でエリート官僚に出世を遂げた。だがその地位のままヤクザを利用したり結託したりするのではなく、自身がヤクザになり替わることで復讐を遂げようとしている。こうした海老名の行動と計画にはねじれが見て取れる。
桐生にとって海老名とは、自分が変えることのできなかったヤクザの歪みとして表出した存在だ。そして海老名は、桐生が終わらせる「龍が如く」の物語に回収される定めから逃れられない。

春日の生き方は、「弱きを助け強きを挫く」ファンタジーな任侠の肯定に思える。彼にとってそれはブライスの言う必要悪や社会原理の肯定ではない。まして「正当な社会」と結託して人々を虐げることでもない。パレカナの信者ではないトミザワは、困窮した際にパレカナのフードバンクの世話になったことに恩義を感じている。

その親分であるブライスを否定することは、間接的にであれ親への否定に等しい行為であり、ブライスの用いる原理に反する。だが春日やトミザワにとってはそうではないのだ。もし仮に正当な社会というものがあるとして、それが人々を虐げるものと結託あるいは自称するのであれば、春日たちは反社会的勢力といえるのだろう。

春日たちに敗北し、千歳に処理場の様子をネット配信されたブライスは、自らの正当性と呪詛の言葉を残して死を選ぼうとする。だが春日は、それを決して許そうとはしない。

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ここに至って、桐生もまた伝説となって死ぬことは選べない。自分が伝説として消えることで人々に同じ轍を踏ませることになるからだ。『龍が如く6』は、彼を生きたまま物語から退場させる幕引きをしくじったが、シーンだけを見れば本作もよく似ている。海老名と決着した桐生はそのまま美しく、極道にふさわしい死に様を迎えられたのかもしれない。だが桐生は仲間たちの尽力によって蘇生させられる。ザオリク、あるいはレイズ。

それでも桐生の体から癌細胞が消えることはない。殴られ、刺され、撃たれ、果てはミサイルでも死ななかった男は、癌という最大の敵と相対し、闘病することとなる。『龍が如く6』のエンディングは「がんばれ!」だった。それは桐生から伝えられる、遥とハルトに向けた最大限のメッセージだった。いまやそれは、遥とハルトが桐生に向けるものとなっている。

シリーズを通して「龍が如く」は死人が多い。「龍が如く 散っていった男たち展」という展示が行われるほどにだ。だが直近の『7外伝』では珍しく、敵味方の誰ひとり死ぬことなく終わりを迎えた。
しかしその役目は、まだ残されていた。桐生同様に名を消した男、花輪喜平は『8』でその最後の役目を担う。彼の死に様は、なにか物語の進行を劇的に変えるわけでもなく、ただ襲われて絶命しただけかもしれない。だが桐生にとってはそうではない。エージェントとして、そしておそらくヤクザとしての桐生を古くから知るであろう花輪の死は、桐生が生きていくことを決意するうえで最後のひと押しになったはずなのだ。

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以前、『龍が如く5』や『龍が如く7外伝』について文章にした際に、桐生の人間味についてしつこく触れた。彼の人間味を描いたという点において、私は『龍が如く8』は非常によかったと思う。先ほど述べたような暴力的な死に様は「ヤクザもの」のフィクションであれば正しいし、実際それを期待している部分もある。ただアンビバレントなことを言うようだが、シリーズに長らく触れ本作をプレイすると、桐生にはヤクザとしてではない生き様をしてほしいという気持ちが私のなかに芽生えてきた。彼は根深くヤクザであるとともに、いまはもうそれだけでは語れないからだ。

「桐生は一体どのようにして大道寺一派から逃れ、名を取り戻したのか?」作中詳しくは語られない部分があり、これは想像もつくが、不備とすることもできる。また、この文章と同様に桐生を中心にスポットが当たりすぎているきらいもあり、桐生の「エンディングドラマ」に比べて春日の「ドンドコ島」開拓の物語性は弱い。この点については両主人公間でゲームとストーリーのバランスを取ろう意図したものだろう。

「生きることは戦うことだ」というメッセージはありきたりかもしれない。これまでの桐生は戦うことが生きることだった。「龍が如く」は我々の生きている時間軸と同じように成長し、老いてきた。もし桐生が人間であるのなら、彼もいつかは死ぬはずだ。私は彼が引退したがっているように見えたから、楽になるのであれば死ぬこともやむなしかと思っていた。しかし彼が2024年の時点で望んで生きようとしているのなら、なにも言うことはない。

『龍が如く7外伝』

『龍が如く8』をプレイしたことで、前作『龍が如く7外伝』の存在意義がより明確化した。『7外伝』は『7』の外伝であるとともに『8』の外伝ともいえる。
舞台となる大阪・蒼天堀は、『8』には登場しない。これは『8』だけでも3都市が登場し、ハワイもかなり広大なマップとなっているため、わざわざ大阪を登場させるまでもないという判断に基づくものだろう。
使えるリソースをフル活用するこの手法は製作上でも効果があるのだろうし、『8』と「ヤクザもの」としての「龍が如く」を締めくくる『7外伝』とは相性が良い。エージェント「浄龍」としては不服かもしれないが、本作は近年の「龍が如く」のなかでも最もヤクザもの感が強い印象だ。

今回の記事では『龍が如く8』における桐生について書くことに終始した。「龍が如く」シリーズではじめてVtuberを取り上げたことやそのバックに居た「三田村英二」のこと、現実にあるハワイのゴミ処理問題、元・東城会のヤクザ「山井豊」についてはあまり触れられなかったが、こうした点についても今後また何かしら発信をしたいと思う。


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(2024/2/22)

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