「龍が如く」シリーズ実写化作品群について–『龍が如く Beyond the Game』配信に寄せて–

割引あり

Amazon Prime Videoにて連続ドラマ『龍が如く Beyond the Game』が独占配信されている。

本作はセガのビデオゲームシリーズ「龍が如く」を基にした完全新作ドラマで、第一作『龍が如く』をベースとしながらゲームとは大幅に異なったストーリー・設定が特徴だ。本作についてはライターのカワチ氏のYouTubeチャンネルにて全話視聴のうえで感想会を行った。以下リンクよりアーカイブが視聴可能となっている。

さて、「龍が如く」シリーズの実写化はこれが初めてのことではない。これまでにも何作かの実写作品が存在している。基本的にゲームもドラマも「歓楽街・神室町を舞台に元極道・桐生一馬の姿を描く」という点は共通する。私は今回の『Beyond the Game』(以下『BtG』)配信の前後、こうした過去の実写化作品を観てみることにした。ゲームとしての「龍が如く」に関しては外伝作含め概ねプレイしていたものの、実写化作品を視聴したことは一度もなかったのだ。

実際に視聴してみると、これらの作品群は自分にとって興味深く、記憶に残るものとなった。だからこそこうしてnoteにまとめようと思い立った。以下はその紹介と感想となる。

『龍が如く~序章~』(2006)

『龍が如く~序章~』は2006年3月24日にDVDでリリースされた「龍が如く」初の実写作品。監督は宮坂武志(総合監督名義で三池崇がクレジット)、主人公・桐生一馬役は船木誠勝が務めた。

「序章」という題の通り、本作で描かれているのは第一作『龍が如く』序盤における1995年のパートまで。つまり錦山彰が自身の親分である堂島宗平を殺害、その罪を桐生が自ら被ることを買って出るという、二人の運命を分かつ事件の発生を以って本作は幕を閉じる。

上映時間は40分程度、ビデオスルーということもあり、それほど予算がかけられていないであろうことが映像から察せられる。原作ゲームの発売(2005年12月8日)から半年も経っていない段階というタイミングであり、最後にはゲームの映像も流れるなど、かなりゲームのプロモーションという趣が強い作品だ。

とはいえシリーズの続いた現在から見るとエポックメイキングな作品でもある。たとえばゲームでは上述の事件直前の数時間前からストーリーがはじまるが、本作ではそれよりも少しさかのぼった時間軸で駆け出しの極道である桐生たちの青春が描写されており、また彼らが生まれ育った養護施設「ヒマワリ」における子ども時代のエピソードも描かれている。

こうした点は、1987年を舞台に駆け出しの桐生たちを主人公とした『龍が如く0 誓いの場所』を先取りしていたともいえるし、シリーズを通してヒマワリについて詳細に語られることの少ないゲーム版とも異なっている(ヒマワリを描いたのは本作と『BtG』くらいではないか)。

なにより船木誠勝が演じる桐生は、ゲームとはだいぶ異なるものの、冒頭のバトルシーンの迫力は他の追随を許さず、短い時間ながら非常に印象に残る。体形、顔つき、声。どれも原作と違う部分だらけだが、「不器用で義理堅い」桐生らしい人物像が、自然体で磊落な雰囲気の船木の演じ方から滲み出ている。対して大沢樹生が演じる錦山は外見や仕草も原作イメージに近く、違和感なくすんなり受け入れられるだろう。そんなふたりが並んで神室町を闊歩している姿は先述の『0』を思い起こさせつつも、それとは異なる独特のおもしろみを感じるものとなっていた。

『龍が如く 劇場版』(2007)

龍が如く 劇場版』は2007年3月3日に公開された劇場用映画作品。2024年現在、シリーズで唯一劇場公開された作品だ。監督は三池崇、桐生一馬役は北村一輝が務める。
本作の特徴は『龍が如く』という「ゲーム」を忠実に実写化したことだ。カギ括弧つきにしたのには理由がある。「拳から炎のようなエフェクトが発生する」「ゲームと同様の体力回復アイテム(栄養ドリンク)で瀕死の桐生が復活する」といったあからさまなゲーム的表現が用いられているからだ。これらに代表される表現は単なる悪ふざけというものではなく、真摯にゲームというメディアに向き合い、映像との違いを踏まえて作られた興味深いものだと感じられ、観ていて愉快なものとなっている。

設定面は概ねゲームに忠実である一方、クリスマス間近の時季を舞台としていたゲーム版と異なり、劇場版はヒートアイランド現象によって蒸し暑い都会の夏を舞台とし、劇中でもしきりに描写がなされる。消えた100億や桐生と錦山の因縁、遥と由美の関係などのゲームにおいて重要とされた設定は「重要であること」以上の意味を持たせず、登場人物のユニークさや神室町という街そのものにフォーカスしている。

本作は群像劇的な作りで、桐生のみならず、銀行強盗(演:遠藤憲一、ムロツヨシ)の立て籠もり事件、若いカップル(演:サエコ、塩谷瞬)の犯罪と逃避行、韓国人ヒットマン(演:コン・ユ)の暗躍など、個別の軸を持ったいくつかのストーリーが進行する。それらは劇世界上で微妙に関わりあいつつも、具体的な協力や敵対といった密接な関係は持たない。こうして各々が好き勝手に街を彷徨し、雑多な人々が行き交う神室町の姿が浮かび上がる。それはサブストーリーやミニゲームといった諸要素を用い、架空の歓楽街の姿を描き出したゲーム版『龍が如く』と同様の作用を果たしている。

ゲーム的表現にあわせて俳優陣の演技はキャラクターに振り切ったものになっている。特に、岸谷五朗演じる真島吾朗は意外な配役に思えたが、ゲーム第一作以上の大立ち回りで強烈な印象を残す。その活躍ぶりは後年のゲームでの人気や描写を先取りしていたかに思えるほどだ。遥役の夏緒も、ゲーム版初期に遥が持っていった生意気さ、無鉄砲さをよく体現している。元極道・少女、そして彼女に懐いた犬。不釣り合いな三者が神室町を歩いているところなどは「龍が如く」らしさをよく感じられるシーンだ。

私は今年に入ってこの作品を観て非常に感動した。正直に言えばこの記事を書いた理由の半分以上はこの作品を観たことがモチベーションとなっている。世間的な評価の高い作品とはいえないが、ゲーム作品の実写映像化としてここまで振り切ってくれればつける文句は私にはない。

『クロヒョウ 龍が如く 新章』


『クロヒョウ 龍が如く 新章』は2010年10月5日よりTBS系列で放映を開始した連続テレビドラマ。「龍が如く」シリーズのスピンオフとしてリリースされたPSP用同名タイトルを原作としている。主人公・右京龍也を斎藤工が演じる。

ヤクザが胴元の地下格闘大会「ドラゴンヒート」に不良少年が巻き込まれ、戦いを重ねるうちに成長していく…という大枠はゲームと同様だ。しかしテレビドラマというフォーマットに合わせてか、人物の設定やストーリーが異なっている。

例を挙げると
・右京龍也の人物造形。ゲームでは当初暴力に溺れる人物だが、ドラマでは「かつて」そうであったという設定。
・上記の設定に関連し、冒頭の闇金襲撃、ドラゴンヒート参加まで最初の経緯が異なる。(ゲーム:龍也自身による金銭目的の強盗、殺人の揉み消し ドラマ:ヤクザとトラブルになった友人の救出、殺人疑惑の冤罪証明)
・右京龍也の姉の職業、友人や一部人物との関係性
・ドラマ版後半の展開もまったく異なる

全体的にドラマ版は万人に受け入れやすいマイルドな設定に変更され、右京龍也の人物像も親しみを持ちやすい。友人たちや姉・冴子とのやりとりは漫才のようで微笑ましく、ゲーム版の剣呑な雰囲気はあまりない。「かつてはキレたら手がつけられない若者だったが、今はもめごとを避けている右京龍也。」というドラマ版の説明文からも、両作の違いが見て取れる。

ゲーム版のキャッチコピーが「暴力の果てに、誇りはあるのか?」だったことを考えれば、ゲームとドラマでは物語の軸に据えたテーマそのものからして異なることがわかる。だが、これほど変更された点が多いにも関わらず、ドラマ版は『クロヒョウ』を実写化した作品だと容易く感じられる。なぜだろうか。

「ヤクザに生殺与奪を握られた主人公が戦いながら疑惑を追う」「未熟な少年が戦いのなかで拳を振るう理由を知り、成長する」「各章ごとに地下格闘場を舞台とした異種格闘技戦を行い、様々な思惑の相手と相まみえる」…このようにゲームとドラマ両方に共通している点をあげ、受け入れやすい理由とすることもできるだろう。

だがその説明では不足していると言わざるを得ない。現段階でその説明をするのは私には難しいが、強いて言うならば、人物同士の関係性をずらしても人物そのものが持つ性質を変えなかったことが、たとえ設定が異なっていても受け入れやすく感じる理由のひとつなのだと思う。本作は先に語った『劇場版』のように「ゲーム」そのものを実写化した作品ではない。だが『クロヒョウ』の持ち味であるバトルものとしてのストーリーや雰囲気を伝えることに成功した、誰もが安心して視聴できる手堅い実写化だといえる。

なお今作は雨宮泰山役に岩城滉一、工藤沙紀役に波瑠などゲームとドラマで共通するキャストが出演している。一方で右京龍也役はゲームでは高良健吾、ドラマでは斎藤工となっていたが、続編『クロヒョウ2 龍が如く 阿修羅編』においてはゲーム・ドラマ両方で斎藤工が演じることになった。

『クロヒョウ2 龍が如く 阿修羅編』

『クロヒョウ2 龍が如く 阿修羅編』は2012年4月5日よりMBS系列にて放映された連続テレビドラマ。前作となるドラマ『クロヒョウ』の続編。大枠はゲーム版とほぼ同様で、前作から1年半後を舞台にプロボクサーデビュー寸前となるまで成長した龍也が、その有望な将来を捨てて、再び神室町とドラゴンヒートに舞い戻り、関西の格闘団体「阿修羅」との戦いを繰り広げる。

前作とおなじく、今作でもストーリーや人物同士の関係性にアレンジが加えられている。特に本作オリジナルのヒロインである水嶋彩(演:岡本玲)は、ゲームに登場する重要人物を大幅に反転・翻案した人物と言える。

「阿修羅」との戦いや公権力の不正をストーリーの軸に据えた点ではゲームと同じだが、前作のゲーム・ドラマの関係と同様に変更点は多岐にわたる。このため、たとえ同名の登場人物、同様の性格であったとしても、視聴者(プレイヤー)の最終的な評価がまるで異なるといった事態も起こるだろう。なお「クロヒョウ」シリーズは、前作に登場したメインキャラクターが特に理由もなく登場しなくなるという性質がみられる。これはドラマのみならずゲームにも当てはまる点で、私としてはやや気になる点ではあった。どちらが良いというものでもないが、この点「龍が如く」シリーズでは、メインキャラクターが登場しなくなる場合、おおかた一作のなかで死亡するか収監されている。

回想シーンなどを用いて前作ドラマの設定を活かした点はドラマオリジナルの「クロヒョウ」らしさがあってよかったと思う。その一方で本作は前作よりもゲーム版『2』に寄せたストーリーとなっており、サスペンスタッチな部分が薄れ、ドラマとしてはやや単調にバトルを繰り返す話になってしまったきらいがある。結末も前作ほどきれいに着地しておらず、いささか消化不良なものに感じた。個人的にはゲームとドラマどちらも、『2』よりも『1』のほうがまとまっていると思う。

『2』からは龍也の仲間として「ドラゴンヒート」のファイターたちが登場したが、そのためか龍也個人の描き方が散漫になってしまったように思えたし、仲間たちの掘り下げも間に合っていない。ただ、その中でも保(演:冨浦智嗣)のバトルシーンの演技は印象深いものだったし、前作と同様にシリーズ内では比較的安心して見られる実写化だと思う。

『龍が如く 魂の詩。』

『龍が如く 魂の詩。』は2016年11月30日にゲオの動画配信プラットフォーム「ゲオチャンネル」で配信された連続ドラマ(翌年1月よりゲオにて独占レンタル開始)。監督は江口カンが務める。タイトルからもわかるように本作はゲーム『龍が如く6 命の詩。』のスピンオフ的な位置づけの作品にある。

主人公は尾道で生まれ育った岡達也(演:葉山奨之)、近藤浩一(演:矢本悠馬)、新井久人(演:福山翔大)ら3人の不良少年たち。幼少期からの仲間である彼らは地元で「最強の3人」を自称するも、実態は荒んだ家庭環境や地元の悪徳警官に強請られる鬱屈とした日々を過ごしている。そんな日々に嫌気が差した3人は、成り上がりを夢みて東京・神室町へと向かう。ゲームのモニター越しに浮かぶ桐生一馬のような、伝説の極道をめざして。

本作はこれまで紹介してきた実写化作品と趣を異にする、完全オリジナルのストーリー。東城会はおろか、誰ひとりとしてゲームのキャラクターは登場しない。作中世界でゲームと共通しているワードはせいぜい神室町くらいだ。ここで、前述した導入部を読んで奇妙に思った人もいるのではないか。そう、本作の世界には神室町という街が現実に存在するものの、桐生一馬ならびに「龍が如く」はフィクションのゲームとして登場し、主人公らにプレイされているのだ。この状況に対してはいくつかの仮設が立てられる。

1.神室町は作中世界に存在し、同名の街を舞台にしたゲーム「龍が如く」がリリースされているが、桐生一馬はフィクション。(我々の世界でいえば歌舞伎町を変名させずそのまま使用したゲーム)
2.神室町は作中世界に存在し、同名の街を舞台にしたゲーム「龍が如く」がリリースされ、桐生一馬も現実に存在する。(ゲーム「龍が如く」の世界と完全に地続きである)
3.神室町は作中世界に存在せず、ゲーム「龍が如く」も桐生一馬もフィクション。(我々の世界と同等)

本作を最後まで見終わったとき、私個人としては3番目の解釈になった。主人公らはゲームをプレイした末に、歌舞伎町を神室町に、自分たちを桐生一馬に見立てたのではないかと思ったのだ。一方でこれは映像の中で明らかに矛盾がある。たとえば「神室町一番街」と書かれたゲームでも象徴的なアーチが作中前半に登場するし、作中の人物たちも「神室町」というワードを口にしている。細かいところを挙げれば他にもあるし、単純に不注意でこうなってしまった部分もあるのかもしれない。ただ私は「神室町一番街」だったはずのアーチが、物語後半になって「歌舞伎町一番街」に変わっていたのを見て、これは主人公らが抱いた妄想あるいは夢だったのではないかと解釈し、背筋が凍った。

本作はひと言でいえば残酷物語だ。どん詰まりのなかで成り上がりを夢見た悪ガキ3人組が裏社会に足を踏み入れ、犯罪に手を染め、絡めとられた挙句、報われず惨い仕打ちを受けるという、いわゆる胸糞だ。そしておそらくは「龍が如く」シリーズ全体を眺めて最もバイオレンスで、重たく、精神的苦痛を感じるようなショッキングなシーンも多い。

地上波テレビドラマや「龍が如く」シリーズの1作の感覚で視聴するとしっぺ返しを食らうと思うので、苦手な人は注意が必要なレベルに達している。そしてゲームの「龍が如く」は作中に薬物を登場させないことで有名だが、本作はその一線も越えている。こうしたこともあって本作は「龍が如く」を名乗りながら、ある意味で最も「龍が如く」のアンチテーゼ的な一作ともいえる。ゲームのファンの中には怒りをおぼえる人さえいるかもしれない。

私はといえば、単純に「好きだ」とは言い表せないものの、本作のことは印象深く、自分でも不思議なくらい気に入っている。本作を観終えた時、私はだいぶ落ち込んだ。先に書いたようなストーリーのため胸焼けしてしまったのだ。

しかしそれとは裏腹に日に日に私の中で『魂の詩。』の存在感は増し、いまでは一定の箇所を占めている。私自身こういった残酷な物語や胸糞悪さはあまり好きなほうではない。しかしゲームというフィクションを通じて、桐生一馬という架空の人物を通じて、「本物」を目指そうとあがいた彼らの姿はすさまじいもので、感じ入るものがあった。彼らは彼らの現実の只中でヤクザ者を演じる、桐生一馬に狂わされたNPCだったのかもしれない。

「最強の3人」を演じたキャストらはみな、どこかあどけなさを残す顔立ちで、だからこそいきがる悪ガキたちの悲痛さが余計に際立っていた。どん詰まりの地元で彼らのしがらみとなる人々、神室町で人々を食い物にする裏社会の住人を演じるキャストからは、独自のルール・慣習で動く者たちの不気味さ、ままならなさが出ていて、みているのが辛くなるほどだった。万人に薦められはしないが、一度みてほしい一作だ。

終わりに

ここまで「龍が如く」シリーズ実写化作品について述べてきた。では『BtG』に関してはどうだったのか?

これについてはいったん感想会で語ったし、散漫になるのでここではあまり長くは書かない。もう少しまとまったら書くかもしれないが、おそらくあまりいい感想にはならないだろう。

以前から竹内涼真が演じる桐生一馬に対して私は期待していたし、見終わったいまでもキャスティングは悪くなかったと思っている。というかまだ、このキャスティングで観たいのだ。

違うものなのでわざわざ比べることもないが、「桐生の目的がわかりづらい」という点で『劇場版』と『BtG』は同じだ。劇場版において桐生の大きな目的というものがはっきりと明示されることはなく、その場その場、シーンが連続しているだけにみえる。『BtG』は桐生が行動を起こす説明そのものはされているし論理としては分かるものの、全体として彼を貫く行動原理が腑に落ちるものでない。両者を並べてみたとき「この人はこういう性格で、何らかの目的があるんだな」と感じさせられたかどうか、その点においては『劇場版』の方が『BtG』よりも長じていた。物語としての筋は『劇場版』にほとんど無いが、桐生一馬という人物の筋を感じさせることには成功しており、それがみているものへの納得感につながっている。

『BtG』はむしろ、原作にいない澤村アイコのような人物のほうが性格や行動原理に納得できるものがあったし、見てみたいと思えるものがあった。

『BtG』のラストはいわゆるクリフハンガー展開だ。それはいい。ただ、その幕を下ろす間際、物語ではなく製作上の都合が見え透いた余力の残し方をしたせいで、多くのことが台無しになりはしなかっただろうか。ここは次など考えず全力で終わらせてほしかった。そうしなければこのキャストの『龍が如く』はまだはじまることすらできない。私はまだみたいと思っているのだが。

まあ長々と書いたが、語りてぇやつだけかかって来い。そういうことだ。

(2024/11/22)

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