【全部お話します】壮絶過ぎる!赤坂奏弥の過去を明かします②
いつもありがとうございます。
1ヶ月で収益7桁達成請負人の赤坂奏弥(あかさかそうや)です。
前回から複数回に渡って私・赤坂奏弥の過去についてご紹介しています。
★☆ 前回記事はこちらから! ☆★
この記事がPart2です。
今回はいよいよ壮絶な過去編です・・・
少し重い話ではありますが、読んでいただけると嬉しいです!
順風満帆な人生がアダに⁉入社早々から暗雲が立ち込める…
大学卒業後、当時の花形職業であったIT業界に就職した赤坂奏弥。
しかし、就職先が超大手のIT企業であったことが仇になります。
大手企業としての地位を守るため、社員へのプレッシャーは厳しく、同僚や同期社員含めて、とてもピリピリした環境だったのです。
せっかく自分の仕事をこなしても、このピリピリした環境から、私はいつも焦燥感に苛まれていました。
職場内の人間は全員、敵!と思っていたのです。
そんなふうに感じては、どんどん自分を追い詰め、職場内の居心地は悪くなり
段々と仕事への意欲もなくなっていきました。
まさに負のループですね・・・。
意気揚々と入社し、周囲にも誇れていた自分の勤め先へ出勤することが怖くなりました。
「出勤したくない・・・」
「仕事することが怖い・・・」
この時には、もう、学生時代の自信に満ちた赤坂奏弥はいませんでした。
自信を無くし、現実に打ちひしがれた情けない自分がいるだけ。
前回記事でもお話していましたが、
幼少時代から優等生として扱われ、すっかりプライドが高くなっていた私には、この状況はとても耐えがたいものでした。
プライドが高いが故に、他人に対する器や許容範囲がとても狭かった私。
上述したような職場環境と相まって、他人からも敬遠され、孤立を深めていきました。
最早、自分も他人も許せず、とにかく苦しい状況です。
こんな状態で仕事の成果が上がるわけはなく、私は社内でどんどん落ちぶれてしまいました。
加速する落ちぶれ。追い詰められる赤坂・・・
落ちぶれていく赤坂。
入社以降、どうにか踏ん張って仕事を続けていましたが、30歳を超えたあたりで出世コースから外されてしまいます。
いつしか同期や後輩が上司になり、私はその部下に。
悔しさや焦りから、仕事へのモチベーションは下がる一方。
そうなってくると仕事に身が入らなくなりミスの連発でした。
こんな私を、周囲の人間が快く感じるはずもなく
社内のプレゼン会議では、上司の好み次第で内容を評価され
よくわからない理由で自分のプレゼン内容を却下されることもありました。
これだけではありません。
・仕事に関する意見を述べると、人格否定のような言葉で罵倒される
・誰もやりたがらないような雑用や、面倒な案件を押し付けられる
・作った資料を、自分の目の前でゴミ箱に投げ捨てられる
・社内の人間に悪口を言われる
・社内の人間が業務委託先やお客様へ、私の噂や悪口を流布していた
・文句を言わず業務を完遂しても、報告したら無視される
こんなことが日常茶飯事になっていました。
超大手の有名なIT企業で、抱えている案件規模も大きい会社です。
その中でも
【案件規模は大きいのに、業務/作業ができる時間がとても少ない】
【神経質なお客様で、対応に苦慮する】
こんな案件は、誰もが引き受けたくない業務でした。
私には、こういった業務をメインで担当させられました。
ある日出社したところ「お前は今日から、この案件の責任者だからな」と業務指示を受け、突然、責任者として祭り上げられました。
祭り上げられたと言っても、当然いい意味ではありません。
あくまでも名ばかりの管理者状態です。
上述したような案件で責任者として対応・指揮を執るようになりましたが、何せ難しい業務。
順調には進みませんでした。
そうした時は、お客様にも、社内の人間も派手にどやされたものです。
あくまでも私は責任者になっていますから、ミスをした場合は私がお詫びに行かねばなりません。
お客様からは罵倒され、無視され、ひどい時には水をぶっかけられたこともありました・・・(遠い目)
そんな状態で帰社しても、上司や同僚は一切かばってなどくれません。
部署の異動が多いこともストレスの原因でした。
そもそもはエンジニア系の採用で入社した私ですが、ある時からは顧客対応、いわゆる営業に近いポジションに配置されることもありました。
一切顧客対応のノウハウがない状況で、いきなりお客様の元を訪問するよう指示をされ戸惑うことも多かったです。
その戸惑いがまたお客様にも伝わっていたのか、潤滑に業務を進めることができなかったり、お叱りをいただくことにも繋がっていました。
遂に心が壊れてしまう・・・!
溜まったストレスの捌け口を食に求めた結果
人間ドッグでメタボの判定が出てしまいました。
(注:当時はまだ30代前半でした)
既に結婚していましたが、勿論、家族には職場での情けない状況を打ち明けられるはずもありません。
家族からしてみれば、ネガティブでいつもビクビク・イライラして何を考えているか分からない夫は、疎ましい存在だったのかもしれません。
妻にも子供にも、冷たくあしらわれたり、見下されることが多い時期でした。
父親として、一家の大黒柱としての立場すらありませんでした。
自分としては、上述の状況の中、懸命に仕事に取り組んでいたつもりでした。
しかし、妻からしてみれば、仕事ばかりで家事や育児には非協力的な夫と感じられていたようです。
妻側から見れば、いわゆるワンオペ育児の生活だったので・・・
(この点は、私も非常に反省しており後悔している部分でもあります・・・)
早朝から深夜まで仕事。たまの休日も仕事。
子どもや妻に、してあげられたことは本当に僅かでした。
そんな私がメタボになっても、妻や家族は、「そりゃそうなるわよ~」と冷めた反応でした。
私が家族に対して至らなかったとは言え、さすがに傷ついた瞬間でしたね。
仕事・プライベート・健康・・・
何一つ上手く運ばない環境の中、ついに私の心は壊れてしまいました。
ある日、突然倒れてしまったのです。
病院に運び込まれ、医師からは「うつ病ですね」との言葉が。
人間って不思議ですよね。
プラシーボ効果と言いますか、うつ病と診断されてからは、これまでよりも一層、毎日が憂鬱になりました。
好きなこと、趣味、食べること・・・
何もかもに一切の興味が湧かなくなってしまったのです。
何かをする気力もない。
寝ようにも、常に動悸や胸騒ぎが止まらず寝付くことすらままならない。
こんな状況では仕事に出ても集中力散漫で、とても重要な仕事を引き受けられるわけはありません。
勿論、もともとが競争の激しい会社。
このように心身に不調をきたす人間は珍しくありません。
だから、「同情してほしい」とは思っていませんでした。
しかし、誰一人として「頑張ってるね」「無理しないで」などの
ささやかな気遣いや労いの言葉もかけてくれなかったことは、さすがに辛かった。
「他人のことも自分のことも粗末にあつかっていた自分に下った天罰だ・・・」
そんなことすら感じている間に、私は40代を迎えました。
何もかもを失った男に、わずかな希望の光が!!
落ち込んだままの人生で、なかなか回復の兆しも見えませんでした。
辛い日々が続く中で、私は徐々に「自分の在り方」に興味をもちました。
そして、ふとしたきっかけで「あるもの」と出会います。
この出会いを通じて自分の心と向き合った結果、私は暗闇から抜けることができたのです。
長くなるため、今回はここまでに。
ここまで読んでいただき本当にありがとうございました。
ぜひ次回記事も見に来てくださいね!
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