丸谷才一『樹影譚』

先月読んだ本のまとめ。

丸谷才一はエッセイは読んだことがあるけど小説は何気に読んだことないな、ということで購入。
読むなら代表作の「笹まくら」かな?とも思ったけど、こちらの「樹影譚」も短編の代表作なので、まあ良いか。
「樹影譚」のほかには2篇の短編が収録されており、本自体はとても薄いつくり。

「鈍感な青年」

ある青年と女の子が、デートで住吉の祭りに行き、初めて事に及ぶもあまりぱっとしない終わり方をする……という、ストーリーだけだと牧歌的というか、どうと言うことのない話。
印象的なのはやはり佃島の祭りかな。

最初に女の子を部屋に誘うのに失敗した青年は、代わりに住吉の祭りに誘う。三年日記をつけていて、以前の日記によれば今日は祭りの日なのだ。ところが実際に行ってみると祭りこそやってるらしいが二年前の派手な祭りとは全然違う。祭りをやってるなんて全然わからないほどの静けさだ。聞けば二年前の祭りは三年に一度やる大祭で、今年は陰祭だから何もしないのだという。

浴衣を着た年配の男など控へてゐない。通りかかりもしない。浴衣を着て綿菓子や風船を手にした子供たちはどこえ行ったのだらう。沸きたつやうな祭りの興奮はかけらもなくて、今日の佃島はごく普通の夏の日にすぎず、町中ひつそりと静まりかかへつて昼寝をしてゐる。笛も鼓も聞えない。

右手の赤い小橋から道の両側に露店が隙間もなく並んでゐるはずなのに、それが一つもなく、戸を閉した家々の前には大証も品種のさまざまな鉢植や、おびただしい自転車があるきりだったのだ。棒飴の店も、おもちゃの店も、ブロマイドの店もない。七味とうがらしの店も、輪投げの店もない。まぶしくてがらんとした道には自分たち二   人だけ。そして汚れたビルの一階では椅子に腰かけた男が一人、玉葱の皮をむいてゐる。

否定表現法って言うんですかね、「あれがない、これがない」という表現を連ねることで目の前にない祭りの存在がかえって呼び起こされ、それが現在の状況と比較される。
主人公の青年が三年日記をつけている、というのがこの趣向を端的に示している。女の子も隅田川をわたって佃島につくと、昔の東京を思い起こさせる情景に「まるでタイムトンネル」なんてつぶやいたりするし。
そういう過去との比較の中で、死んだ友人の存在などがうっすらと浮かぶようになっている、という仕組み。ただ、「鈍感な青年」はそれをはっきりと感じ取るというところまではいかないようだ。

「樹影譚」
ご存知代表作。
作者のエッセイのようなプロローグが挟まれていて、その「私」が書く小説という構成をとっているのが特徴。
小説内小説という形で徐々に三人称に変わり、その中でストーリーのクライマックスと照応する小説内評論が展開され、そこからさらにその評論と照応するクライマックスのエピソードがあり……

最後は主人公の出生にまつわる嘘か本当かわからない話を聞かされ、これまで丁寧に造形してきた主人公のアイデンティティーが揺らぐのですが、その過程で小説そのものが目の前で変身していくわけですね。
メタフィクションとかメタミステリというのは多くあるが、こういう作中作の趣向というのは、読者に文章自体が変身する姿を見せつけるものなんだなあ、と思った次第。
丸谷才一が翻訳している『若い芸術家の肖像』(主人公が成人していくにつれて文章も複雑になる)のエピグラフでオウディウス『変身物語』が引用されているのを思い出した。

「夢を買ひます」

変身願望、嘘と真、作り話、物語、想像力などのモチーフに満ちた短編。
美容も、カツラのエピソードも、夢もあるいは宗教もみんな上にあげたようなモチーフと繋がっているわけです。

ニケの女神像もその一つで、顔のない女神像は顔がないゆえに想像を刺激するわけだが、作中の宗教学者に言及されるのは聖書の天使との関連性。
現在の翼のある天使のイメージはギリシアの彫刻や他の地域の神話からの影響で、元をたどれば天使もニケの女神も松保の天女も同じものに行きつく。

「翼のついてる天使の底に、つばさのついてゐない神様のメッセンジャーや、それから羽衣の天女がひそんでる」

それはさながら、主人公の顔の下に整形する前の顔が隠れているよう…でも、考えてみればそもそもの整形の話が夢、それも他人の夢を買った話だ。

「樹影譚」ほどあからさまではない、むしろ文学や文化論と縁があるとはとても言えない語り手を装っているが、とてもメタフィクション的な作品。

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