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プーシキン伝記第3章 南方 1820-1824⑥

 しかしながら、別のモチーフもあり得る:遠い祖国で逃亡者は、心に秘めた、分かち合えない ― 時には罪深い ― 愛情を捨てた。この愛情には希望がない。逃亡者は愛情を心から消した、しかし彼の心は愛情のために衰弱していた、それで彼は《野蛮な娘》の無邪気なみずみずしい感情に応えることができない。分かち合えない、心に秘めた愛情についての神話が生まれる。
 概して、ロマン主義的人物の神話はこのようなものだった。我々は知っているように、プーシキンはその描写の盲従的な模倣にははなはだ遠かった。しかしながら彼は、ロマン主義は時代の一般的文化的意識の事実を提示している、また読者は、人間と詩人を、まさにそのようなプリズムを通して見ている、ということを考慮に入れていた。
 これらの ― まだ新しい ― 文化的認識を持って独特な遊びに加わると、プーシキンは、部分的にはその影響のもとで自分の行動を似せて、部分的にはまさに自分の個性の魅力と権威によって、詩人の人間性についての読者の理解に影響を及ぼした。
 5月半ばにプーシキンはキエフを通過した。ここで彼はペテルブルクの一連の知人たち、特に1812年の英雄として名高いニコライ・ニコラエヴィチ・ラエーフスキイ将軍の家族と出会った。ラエーフスキイとプーシキンは、おそらく、ジュコーフスキイを通して知り合ったのだが、彼の息子、《年下の》ニコライ・ニコラエヴィチとはすでにペテルブルクで近づきになっていた。5月17日には彼はエカテリノスラフ、自分の新たな勤務地へ到着した。
 勤務は、実を言うと、なかった。インゾフは彼を愛想よく迎え、すでに5月21日にはプーシキンについての好意的な評価をペテルブルクへ送っていた。まもなく詩人は、ドニエプル川で泳いで、重い風邪を引いた。病人となった彼を引き取ったのは、エカテリノスラフを通過してカフカスへ向かう道中のラエーフスキイ一家であった。1820年9月24日の弟への手紙に、プーシキンは彼にとって記念すべきこの旅についてこのように書いた:《インゾフは私に十字を切って旅の無事を祈ってくれた ― 病人の私は幌馬車に横になった;一週間後には全快した。2か月間私はカフカスで暮らした;鉱泉は私にはとても必要で、非常に助けられた、特に硫黄の温泉に。とはいえ、硫酸の温水、鉄分の多い温水、また酸性の冷水にも入った。これらの薬効のある湧き水はすべて、カフカス山脈の支脈の末端に、互いに程遠からぬ場所にあった。わが友よ、君が私と一緒にこれらの山々の華麗なる連なりを見られないのは残念なことだ;山々の氷で覆われた頂は、朝焼けに輝く時、遠くから見ると、色とりどりの動かない奇妙な雲のようだった;ベシュタウマシューク鉄山、石山、蛇山、5つの丘陵のとがった頂へ一緒に登れないのは残念だ〈…〉私はクバン川の岸辺と警備にあたる村落を眺めていた ― 我々のコサックたちに見とれていた。いつも馬に乗っている;いつでも戦う準備ができている;不断の警戒状態にある!自由奔放な山岳民族たちの敵意に満ちた活動領域であることを念頭に置いて進んだ。我々の周囲を60人のコサックが囲み、我々の後からついて行くのは、導火線に火を付けられた装てんされた大砲だった〈…〉我々は海路でタブリーダの南海岸の辺りを出発し、ラエーフスキイの家族が滞在しているグルズーフヘ向かった。夜には船上で哀歌を書いた、それを君に送ろう;それをグレチに署名なしで送ってほしい。船はポプラやブドウ、ゲッケイジュ、イトスギでおおわれた山々を前にして進んで行った;あちこちにタタール人の村落が見え隠れしていた;船はグルズーフの見えるところで停泊した。


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