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プーシキン伝記第二章 ペテルブルク 1817-1820⑥

 リツェイでのプーシキンは、《アルザマス》の会に当事者不在のまま選ばれ、《コオロギ》という仮名を得て、この組織の活動に実際に参加しようともがいていた。しかしながら、この願いがかなったときには、福祉同盟が出現する時期における《アルザマス》の純粋な文学傾向は、すでに時代遅れになっていた。1817年2月から4月の間に《アルザマス》にはН.トゥルゲーネフとМ.オルロフが、また秋にはН.ムラヴィヨフが加入した。彼らは皆、非合法の政治活動グループの積極的なメンバーで、誰もが文学を独立した価値あるものとしてではなく、政治的プロパガンダの手段としてのみ審議していた。この時までに《古参の》アルザマス会員たちの政治的関心も活気づいていた:П.А.ビャーゼムスキイ、Д.В.ダヴィドフである。Н.И.トゥルゲーネフの1829年9月29日の日記の書き込みは、注目に値する:《一昨日、我が家でアルザマスがあった。私たちはつい、文学から脇にそれて国内政治について話し始めた。皆、奴隷制を撤廃する必要性に賛成だった》¹。この会議にはおそらく、プーシキンも出席していた。
 ¹トゥルゲーネフ兄弟の資料集,第5巻. ペテルブルク,1921,p.93
 《アルザマス》は政治性を帯びた積極的活動に向かう用意はなく、分裂した。しかし、おそらくここでプーシキンはニコライ・トゥルゲーネフとミハイル・オルロフと親しくなり、この時期の彼らとの関係が古典的な文学への愛着と友情を決定的に排除した。カラムジン、ジュコーフスキイ、バーチュシコフ ― 言葉の優雅さと《新文体》の闘士、《対談》との文学討論の英雄 ― は、自由の唱道者たちと公民の美徳を前にして、力を失った。
 この数年、プーシキンの人生において特別な役割を果たしたのはニコライ・トゥルゲーネフである。彼はプーシキンより10才年上であった。フリーメーソンだった父親から厳しい倫理的原則と深い信心深さを受け継いで、Н.И.トゥルゲーネフは確固たる教条主義への傾向と、非常に熱狂的な、とはいえいくらか文語的ではあるが、ロシアとロシア国民に対する愛情を伴う無味乾燥たる知性とを合わせ持っていた。奴隷制度(彼独特の政治的語彙表現によると、《野蛮》)との闘いは、彼が生涯を通じて貫いた理念であった。彼の兄、アレクサンドルは、性格の温厚さで際立ち、彼のリベラリズムは、主に寛容さ、別の観点を受け入れる心構えに現れていた一方で、ニコライ・トゥルゲーネフは狭量で人々に妥協しない態度を求め、決議には厳しく、会話には嘲笑的で断固たるものがあった。このトゥルゲーネフの部屋に、プーシキンは常日頃、客になっていた。この時期のトゥルゲーネフの政治的見解は基本的に、彼が1818年後半に加入した福祉同盟の穏健派の傾向と一致していた。彼が政府の援助を得て達成することを期待していたのは、農民の解放であった。

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