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プーシキン伝記第3章 南方 1820-1824㉘

 福祉同盟の規約は新メンバーの候補者に対して高い道徳的要求を提示した。とはいえ加入するための実習はそれほど厳しくはなかった:ヴァドコフスキイはほとんど見知らぬシェルヴーダを軽率にも受け入れのだが、彼は裏切り者であることが判明した。ぺステリは、彼の連隊の陸軍大尉マイボロダがしでかした国庫の不正使用を隠して、公金着服者を南部結社に受け入れた。マイボロダは結社に政府のことを密告するという裏切り行為でぺステリに報いた。しかし、これらの注意を引く事例をわきに置いておくとしても、放蕩者で決闘好きな怠け者という風評は、П.П.カヴェーリンを福祉同盟に受け入れることを妨げなかった、と指摘できるだろう。
 プーシキンの場合は根本的に違うものだった ― 彼の個性の豊かさと多様性は袋小路に立たされていた。プーシキンの厳しい政治的指導者たちは、彼の行動をコントロールすることはできない、彼から思いがけないことを期待することはできない、と感じていた。彼らはプーシキンのポエジーに魅了されていたが、ただ部分的であり、ポエジーの一定の方向性を認めなかった。そして詩人自身に彼らは、彼らの意見に従って、国民の英雄的行為ではないもの以外の、より一層偏ったものを求めていた。
 1822年2月、キシニョフ・グループの壊滅が始まった。オルロフに対して取り調べが始まった。形式的に彼が師団指揮官から罷免されたのは1823年4月であるが、実際には《オルロフ主義》は1822年4月には終わっていた。友人や同じ思想の人たちの全てのグループが追跡され、密告され、崩壊する雰囲気は、その後もキシニョフに滞在しているプーシキンを非常にやりきれない思いにした、それで彼は、ついに、オデッサへの転勤の機会が与えられたときには喜んだ。
 1823年春、ロシア南部の行政機構において変化が起きた:ノヴォロシア地方の知事とベッサラビア地方の総督の地位が一人の手に掌握された。地方の総督に任命されたのはМ.С.ヴォロンツォフ、事務局所在地は ― オデッサであった。プーシキンはヴォロンツォフの事務局に配属された。1823年8月25日に彼は弟に手紙を書いた:《弟よ、私はお前にまったく小説じみたものを書こうと思う ― わが人生の最後の3か月という。それはこんな事だ:私の健康には海水温泉浴が必要だったので、私をオデッサへ行かせてくれるようインゾフを説得した ― 私はモルダヴィアを去り、ヨーロッパに到着した ― レストランやイタリアオペラが私にすぎし昔を思い起こさせ、本当に私の魂をよみがえらせた。そのうちにヴォロンツォフがやって来て、私をとても愛想よく受け入れてくれた、私は彼の指揮の下で移動し、オデッサに残るように通告された》(XIII,66-67)。


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