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プーシキン伝記第二章 ペテルブルク 1817-1820⑮
なぜロシアの専制の遺物にチャアダーエフ、《なにも書いていない、いかなる活動分野でも自分を目立たせていない、20才の取るに足らぬ若造》の名前が書きこまれねばならないのか、このように毒々しく回想録者の一人は彼について書いた、そしてまた ― 政治活動において自分についてまだなにも表明せず、ロシアの非合法的活動家たちのグループに参加することすら許されていないプーシキンの名前は?我々にとってこの詩行の奇妙さは、この詩行の中にすべての自由を愛する若者たちへのメッセージを見いだすことで隠されている、またプーシキンを、彼のその後の栄誉ある光のなかで理解している。しかし1818年から1820年の間(詩に入れられた日付はおおよそである)その詩は英雄的な功名心に燃えた構想の観点においてのみ理解されうるものだった。
まさにこの構想の中にプーシキンは人生において最も苦しい時の一つの支えとなるものを見いだしていた。同時代人の多数の証言が、プーシキンの魅力を、彼の友情における才能と恋愛における才能を証明している。しかし彼は憎しみをも呼び起こすことができた、それで彼には常に敵がいた。1819年から1820年のペテルブルクにおいて、プーシキンの詩や言葉、そして敵対行動について、自発的に政府に報告していた者が十分に見つかっている。特に献身的だったのはВ.Н.カラジン ― 功名心に取りつかれた落ち着きのないうらやましがり屋である。他人の栄誉は彼に心からの苦悩を呼び起こした。彼の密告はアレクサンドル一世の耳に達するまでに、だんだんと悪意を含んでいき、プーシキンは密告の中でツァーリを個人的に侮辱する者として描き出されていた、一方、疑い深く執念深いアレクサンドルは、きわめて挑戦的な思想なら許すことができたが、個人的な侮辱は決して許さないし、忘れなかった。
1820年4月19日にカラムジンはドミートリエフに書いた:《この地の詩人プーシキンの頭上には、暗雲はないとしても、少なくとも、雷を帯びた雲が立ち込めている(これはここだけの話だが):自由主義者の旗のもとに奉仕しながら、彼は自由についての詩、君主に対する諷刺詩、そのほかいろいろなものを書いて広めた。これを警察などは知っていた。取り調べを警戒している》¹。
¹カラムジン ドミートリエフへの手紙. サンクトペテルブル
ク,1866,p.286-287.
プーシキンの運命が決まり、友人たちは詩人のために皇帝のもとへ奔走していたその時、ペテルブルク中に詩人は政府の命令で秘密裡に鞭打たれたという醜悪なデマが徐々に広まった。そのデマを広めたのは有名な冒険家、決闘好き、トランプ狂のФ.И.トルストイ(《アメリカ人》)だった。プーシキンは中傷の発生源を知らなかったが、非常にショックを受け、最終的に自分は侮辱された、また自分の人生は ― 破壊されたと考えた。何を決意するべきか、 ― 自らの命に終止符を打つか、あるいは間接的にデマの原因となった人物である皇帝を殺害するか分からないまま、 ― 彼はチャアダーエフのもとへ飛んで行った。そこで彼は安らぎを見いだした:チャアダーエフは彼に、偉大なる活動の舞台を目前に控えている人間は、中傷を軽蔑し、自分の迫害者たちよりも上にいなければならない、ということを証明した。
死の瞬間 秘密の深淵の上で
君は油断せぬ手で私を支えてくれた;
君は友人に希望と平穏を取り戻した;
魂の奥深くを 厳しい眼差しで究明し、
君は忠告あるいは非難で魂をよみがえらせた;
君の熱意が高潔な愛をわきあがらせた;
恐れをしらぬ忍耐が私のなかでふたたび生まれた;
もう中傷の声は私を侮辱することはできない、
私は憎みながら、軽蔑することができた (II,1,188)
カラムジンやチャアダーエフ、グリンカの奔走で、プーシキンの運命はいくらか軽減された:シベリアも、ソロフキも、彼の追放地にはならなかった。1820年5月6日、彼は中将И.Н.インゾフの官房への任命を受けて、ペテルブルクから南方へと出発した。
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