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プーシキン伝記第3章 南方 1820-1824⑪

 プーシキンは世間から離れたところに建つインゾフの家の、一階の部屋に住みついた。地震の影響で家が半壊し、インゾフが家を捨てたときでも、彼はその家に残った。プーシキンは廃墟で生活することが気に入っていた。家のまわりを取り囲む荒れ地や葡萄畑とともにいることは、《荒野》に生きる《逃亡者》としての自分自身のイメージと調和していた。彼は騒がしいキシニョフと名づけた。(町はここ数年で非常に人口過密となった:実際のところ、それほど大きくない入植地であったが、そこにロシアの行政機関の官吏たちや、新しい行政の中心地へ行こうとするモルダヴィア人の地主たち、その地に駐屯しているМ.オルロフの師団の兵士や将校たち、また、ギリシアの蜂起が始まってからは ― トルコやトルコ領モルダヴィアからの避難民、イプシランティの部隊の志願兵たちの家族でいっぱいだった)。プーシキンはこう書いた:《私は、私にとって空虚なモルダヴィアに一人である》(XIII,19) ― モルダヴィアが《空虚》なのはただ《彼にとって》、つまり詩的な主観的な解釈においてである。
 ここで《コーカサスの捕虜》、《ガブリイリアーダ》、《盗賊の兄弟》、膨大の数の詩(それらには《黒いショール》、《短剣》、《В.Л.ダヴィドフに》、書簡《チャアダーエフへ》、《ナポレオン》、《オヴィディウスに》、《賢明なオレクについての歌》などが含まれる)、一連の論文が執筆され、《バフチサライの泉》と《エウゲーニイ・オネーギン》が書き始められた。
 この膨大な作品の全範囲は、つながりのないばらばらのテキストの機械的な総和ではなく、際立った一貫性をもっていた。それらを結びつけている根幹にあるのは、著者の人物像である。この人物像は、詩人の作品から生まれ、ロマン主義風に様式化された彼の人生の事実と、複雑に絡み合っていた。また一方で、この人物像は、読者の財産となり、彼らが新しいプーシキンのテキストをどのように受け取るかに影響を与えた、また他方では ― 著者自身の行動に反対の影響を与えた。
 この人物像の基本的な特徴は、《詩人-逃亡者》あるいは《詩人-追放者》であった。ある意味で、自ら進んで祖国を捨てた《逃亡者》と、強制的に祖国を離れることを強いられた《追放者》は、概念の体系上では同義語のように見えた。詩《ジプシー》において、アレコが連れている鎖につながれた熊でさえ《故郷の穴の逃亡者》と呼ばれている(IV,188)のは特徴的であるが、熊は明らかに、ロマン主義的用語では囚われ人と呼ばれるべきである。しかしながらこれら二つの概念-人物像の間には、ある程度の差異があり、それらがそれぞれ伝記的現実とその解釈に影響を与えていた。

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