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プーシキン伝記第二章 ペテルブルク 1817-1820⑬

 プーシキンの立場に対する無理解は、非合法グループの中で彼はまだ《未熟である》から信頼できない、という認識を生んだ。そしてもし、プーシキンを個人的に知っていて、彼を好きな人達が、プーシキンは秘密結社の外にいながら自らの詩で自由の身となることを促す(プーシン)、あるいは、革命闘争に直接的に関わる危険性から彼の才能を守る必要性のために追放する(ルイレーエフこそ自分を大事にしなかった!)ということについての慰めとなる見解で、この判決を軽減したとしても、プーシキンを個人的に知らない、第三者からの噂を常食としているデカブリスト周辺の人々にいたるまで、この種の解釈に達した:《彼は性格上小心で、彼の堕落した生活において、すぐに政府に秘密結社の存在を密告するだろう》¹。あまりにも不当なこの言葉は、И.И.ゴルバチェフスキイ ― まれにみる不屈なデカブリスト、誠実で勇敢な人物 ― のものである。これについて彼は、絞首刑にされたС.ムラヴィヨフ‐アポストルМ.ベストゥージェフ‐リューミンの意見のように、デカブリストにとって非常に崇高な権威を引き合いに出した。ミハイル・ベストゥージェフは、ゴルバチェフスキイの原稿は彼の注記で覆われていたのだが、これに完全に同意だった。
  ¹ゴルバチェフスキイ И.И. デカブリストの手記. モスクワ, 1916年, p.300
 福祉同盟は、あとに続く革命的伝統のなかで、非合法活動の組織という言葉に与えられた意味では、十分ではなかった:その存在について広く知られていたのだ。特徴的なのは、М.オルロフН.Н.ラエーフスキイ将軍の娘に求婚した時、未来の妻の父親は、結婚の条件として秘密結社から脱退することをオルロフに課した。つまり、ラエーフスキイは結社の存在を知っていたのみならず、誰がそのメンバーかについても知っており、また結婚に際して花嫁の持参金の問題を検討するのと同様に、この問題を検討していた。
 絶えず秘密結社の参加者と係わりをもつうちに、プーシキンは当然ながら、その存在について知り、その仲間に入ることをあからさまに志していた。彼が招待を受けなかったこと、さらに、プーシンのような、彼に非常に身近な人達からの、丁重だが断固たる反対にぶつかったことは、言うまでもなく彼を極度に傷つけた。もし彼が、一方からは指導者たちの執拗な教訓により、他方からは ― 友人たちの不信の念により、どれほど痛めつけられ傷つけられたかを考慮に入れないならば、熱病にでもかかったような神経質な状態、ここ数年間のプーシキンの精神状態に特徴的な緊張状態は、我々には謎のままだろう。その状態が現れているのは、たとえば、彼はいかなる場面でも侮辱を待ち構えていて、常に決闘の申し込みに応える準備があった。1817年夏には、彼はつまらぬ理由で叔父の老人С.И.ガンニバルに決闘を申し込み、Н.トゥルゲーネフ、リツェイの同級生М.コルフ、デニセヴィッチ少佐、そしておそらく他にもたくさんの人々に決闘を申し込んだ。Е.А.カラムジナは弟ヴャーゼムスキイに書いている:《プーシキン氏のところでは毎日が決闘です、ありがたいことに、死はもたらされていませんが》¹。すべて決闘がうまくけりをつけるわけではなく、《戦場》までいかない事もあった:1819年秋にプーシキンはキュヘリベーケルとピストルで決闘した(キュヘリベーケルの申し込みによる)が、お互い空を撃っただけだった(事は友人としての和解で終わった)。のちに彼はФ.Н.ルギニンに打ち明けたことには、ペテルブルクで重大な決闘を予定していた(予定では、彼の敵対者はルイレーエフだった)。
  ¹古いものと新しいもの, 第1巻, 1897, p.98

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