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プーシキン伝記第3章 南方 1820-1824㉓

 特筆すべきは、オルロフの家でプーシキンが永久平和について説いていたまさにこの日々に、彼は詩《戦争》を書いたということである。詩はこの言葉でしめくくられている:《最初の戦いはまだはじまっていないのだろうか?》(II,1,167)。革命的な戦争(この当時の場合、ギリシア人解放のための戦争)は、プーシキンにとって世界を否定するものではなく、唯一の実現可能な戦争根絶への道であった。オルロフにとっては(ほかの多くのデカブリストたちと同じように)、自由は、18世紀のフランス革命と同様に、戦争の目的 ― ロシアの国家としての偉大さを明らかにしなければならなかった;プーシキンにとっては、自由は平和をもたらすものだった。
 しかしながら、オルロフのサークルやラエーフスキイの家で審議されていた基本的な問題の数々は、ロシア国内の問題であった。この数ヶ月におけるプーシキンの政治的傾向は、彼の同僚П.И.ドルゴルーコフの日記にある、たわいない書き込みによく現れている。ここで読んでみよう:《プーシキンは政府を、地主たちを非難して、辛らつに言っている、説得力がある》。プーシキンは《突然、我々につぎのような演繹法を言った。《以前は、一方の人民が他方の人民に抗議していた、いまは、ナポリ王が人民と戦争をしている、プロシア王が人民と戦争している、イスパニア王も ― 同じである;どちらが勝つか、予想することは容易だ》。この言葉のあと、深い沈黙がおとずれた》。《総督は今日、小銃を持ち犬を連れて狩猟に出かけた。彼が不在の間、家族のための食事が用意され、そこで私もプーシキンと昼食をとった。プーシキンは、自分を解放し、自分の好きなテキストからロシアの政府について話し始めた。彼と論争したいという意欲が通訳のスミルノフをとらえた。そして彼に反論すればするほど、プーシキンは燃え上がり、激怒して、限界を越えた。ついにあらゆる社会階級にたいして悪罵が飛んだ。文官の役人はろくでなしで盗人、将官はほとんどが卑劣漢、唯一の階級、農民こそ尊敬すべきである。ロシアの貴族を特にプーシキンは非難した。彼らは皆、絞首刑にしなければならない、もしそうなれば、彼はよろこんで縄を締めるだろう。》¹
 ¹同時代人の思い出のなかのプーシキン,第1巻,p.360-361;1822年4月30日,5月27日,7月20日の記述。
 
 この気分は詩人の創作に反映していた。オルロフやラエーフスキイ、そのほかのキシニョフのデカブリストたちとの絶えざる交流は、プーシキンを、1821年から1822年のデカブリストの運動における最も急進的な人物たちの政治思想の真の表明者としている。彼は自分が、非合法のサークル内でますますいっそう粘り強く審議していた暴君殺害の思想の支持者であることを、断固として表明している。
 プーシキンはキシニョフでじっとしていられなかったのだが、彼に対して感動的なほど思いやりをもって接していたインゾフ将軍は、彼が一時的に不在になることをよろこんで許してくれた。プーシキンがたびたび訪問した場所は、В.Л.ダヴィドフの領地であるキエフ近郊のカメンカであった、彼はトゥーリチンにもよく行き、ヴァスィリキーウ¹を通り過ぎた。このような小旅行は、彼と南方のデカブリストたちとの個人的な関係を強めることとなった。
¹トゥーリチンとヴァスィリキーウ ― 南方のデカブリスト組織の中心地。

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