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プーシキン伝記第3章 南方 1820-1824⑬

 追放された脱走者という人物像は別の心理的資質と関連していた:ここでは《早すぎる魂の老い》ではなく、反対に ― 闘いに対するエネルギーと覚悟が求められていた。それに応じて作者の個性のタイプも変化した。
 
   容赦なきスラブ人、私は涙を流さなかった (II,1,229);
 
    いつも私は同じだ ― 以前もこんな風だった;
    無学者には挨拶して歩かない、
    オルロフと論争する、めったに飲まない、
    オクタヴィウスに ― 盲目的に期待して ―
    追従の祈祷をうたわない(II,1,170)。
 
 プーシキンの自己解釈においてこの時期大きな役割を果たしたのは、アウグストゥス帝によってドナウ川の河口へ追放された、ローマの詩人オウィディウスの人物像であった。自らをオウィディウスと同一視し、アレクサンドル一世を ― 尊大な仮面の下に復讐心を隠している、腹黒い暴君アウグストゥスと同一視することは、プーシキンに重大な役割を与え、自分自身の個性を測定する縮尺をもたらした。権力に迫害された詩人は、権力と同じ水準に立っている(1825年プーシキンはこの考えを考慮に入れた、ナポレオンがジェルメーヌ・スタール迫害したことを書いた時に、XI,29を見よ;。太字の強調は私。 ― ユーリー・ロトマン)。アレクサンドル一世にとって(かつてヴォロンツォフにとってと同様に)プーシキンは政府の処罰を受けている、取るに足らない官吏であった。プーシキンは自分自身と読者に、別の解釈を提案した:彼は ― オウィディウス、暴君に追放された詩人である。さらに対置が始まった。オウィディウス ― 弱気で甘やかされた南方の歌い手、哀歌と恋の詩の作者 ― はアウグストゥスに赦免を懇願していた。《厳格なスラブ人、私は涙を流さなかった》(II,1,229);《オクタヴィウスに ―  盲目的に期待して ― 追従の祈祷をうたわない》(II,1,170;オクタヴィウスとは ― アウグストゥス帝のことである)。
 囚われ人、脱走者、追放者の人物像はプーシキンの芸術作品に集中している。しかし彼らは、具体的な詩から離れて、北方にいる彼らへ送られた手紙の中に入り込んでいる、一方で、おそらく会話の中でも、ある種の生彩あるおおいで詩人を包み、彼の個性と運命を同時代人の面前で様式化している。考えられる多数の例のうち一つだけ挙げてみよう。1823年8月25日の弟への手紙のなかでプーシキンは、自分がオデッサへ転任することについて(知らせは、その時はなはだ喜ばしいものに思われた)また、新しい土地への転任に応じた実際の仕事を決定するために、彼はもう一度キシニョフへ行かなければならないということについて伝えている:《…ヴォロンツォフがやって来て、私をとても愛想よく受け入れ、私に、彼の指揮下へ移動し、オデッサにとどまることが説明される ― おそらく良いことだろう ― すると新たな悲しみが私の胸をしめつけた ― 私は捨て去った山脈と離れるのが悲しくなった。数日後キシニョフに到着し、説明しがたい哀愁を感じつつ過ごした ― そして、そこから永久に旅立つと、 ― キシニョフのことを想いため息をついた》(XIII,67)。体験の記述は深く誠実であり、心理的に非常に自然である。しかしこの記述を理解するには、《キシニョフのことを想いため息をついた》という表現は ― ジュコーフスキイによって翻訳されたバイロンの物語詩《シヨンの囚人》から最後の一行が少し作り変えられたということを考慮に入れる必要がある:
 
   自分の牢獄の扉のむこうへ
   私は踏みこえ 自由の身になると ― 
   私は自分の牢獄のことを想いため息をついた。


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