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プーシキン伝記第二章 ペテルブルク 1817-1820③

 プーシキンの人生において、本が愛すべき仲間であった時期はたびたび訪れた、つまり孤独と思索に耽ることは ― より良い勉強であった。1817年から1820年はこういった時期とは強烈に違っていた。ここで問題は、若い詩人の消耗されない精力がはけ口を猛烈に探していたということにあるのではない。彼と歩調を合わせて沸き立ち、煮えたぎっていたのは、若いロシアであった。この数年は、ロシア史上、一種独特な他にたとえようもない特徴をそなえていた。ナポレオンとの戦争の幸運な終結は、世の中に、自ら有する力の感覚を呼び起こした。社会に活気がみなぎる権利が最終的に得られたように思われた。ロシアにおける若い人々は、活動への熱望と、ロシアの可能性への確信に満たされていた。この途上において政府と《老人たち》との衝突はすでに十分はっきりと現れていたが、誰もまだその悲劇的特徴を信じていなかった。その時代の特徴であったのは、個々の尽力を一つに統合する傾向である。読書は ― 勉強であり、文化史において伝統的に孤独と結びついていたのだが、― 読書すら皆で一緒に行われた。18世紀初頭、カンテミールは読書について書いている:
         …納戸に閉じこもる
   死んだ友人たちのために ― 生きている者を失いつつ。
 
 1810年代後半から1820年代前半のロシアにおいて、読書は ― 友達と交際する一つの形式であった。一緒に考え、論争し、飲み、政府の政策あるいは劇場の新情報を審議するのと同じように、一緒に読んだ。プーシキンは、軽騎兵のЯ.サブロフに向けて書いた詩で、一行ずつ並べて書いた 
        …カヴェーリンと散歩して、
    モロストホフとロシアを罵って、
    チャダーエフと読書をした。(II,I,350)
П.П.カヴェーリン ― ゲッチンゲン大学出の軽騎兵、放蕩者で決闘好き、福祉同盟の一員である。彼が《散歩していた》(つまり飲み騒いでいた)のは、プーシキンとだけではない、ネフスキー通りの有名なレストラン、タロンでオネーギンとともに《天井にむけてコルクを吹っ飛ばした》。П.Х.モロストホフ ― 宮廷付き軽騎兵、変人であり、自由主義者。読書は余興や話し合いと同様に、仲間を必要としている。このような読書の特徴は、デカブリストであったИ.Д.ヤクーシキンの話の中に見事に実例として描かれている。彼は1818年、陸軍大佐П.Х.グラッベと知り合いになった。彼らが話している時、従卒がグラッベのもとに軽騎兵の制服を持ってきた:モール付きの制服と毛皮のマント ― そしてアラクチェーエフのもとへ自己紹介に出かけようとしていた。《会話は古代の歴史家についてはまり込んだ。この当時、私たちは熱烈に古典を愛していた:プルタルコス、ティトゥス・リウィウス、キケロ、タキトゥス、といった人物たちは、私たち二人にはほとんど座右の書であった。グラッベも古典が好きだった。私の机の上に置いてある本から私はグラッベに、ブルータスがキケロに宛てた幾通かの手紙を読んだ。その手紙の中で、アウグストゥスに対して軍事行動を起こす決意をしていたブルータスは、キケロの弱気を非難している。この読書の時にグラッベはおそらく(より正確には《目に見えて》― ロトマン註)燃え上がり、出かけないと従卒に言うと、私たちは昼食をともにした;その後、彼は二度とアラクチェーエフのもとへ訪れなかった》¹。
  ¹ヤクーシキン И.Д. 手記、論文、手紙. モスクワ,1951,p.20.

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