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プーシキン伝記第二章 ペテルブルク 1817-1820⑪

 このような視点は、詩人の個人的、日常的行動に痕跡を残した。絶え間ない情熱の緊張状態で生きることは、プーシキンにとって気質に屈することではなく、理性的でプロットのある人生の志向であった。そしてもし、愛が、この果てしなく続く生命の燃焼の現れであるならば、たわむれと怠惰は、国家の官僚主義の現実から遊離した規律に対する、不服従の約束事的な記号になるだろう。ペテルブルクの実務的な礼儀正しい秩序に対し、たわむれと怠惰は、礼儀の約束事的な規範への抗議として、また国家としての価値をもつ全世界をまじめに受け入れることの拒否として、対置された。しかしながら同時に、たわむれと怠惰は、デカブリストの倫理である公民としての意気高揚の真剣さにも対置されたのである。
 デカブリストと、それに近い自由主義の青年グループとの間を境界線が二つに分けていたのは、倫理の領域、直接的な日常生活習慣の領域、毎日の生活スタイルであった。慈善家であり、金に淡泊なフョードル・グリンカは、毛布の代わりに制服外套をかぶっていた、そしてもし、取るに足らぬ農奴の芸術家を身代金を払って自由にする必要があるならば、自らのお茶を拒否し、熱湯に変えた。彼のモットーは、厳しい貧しさと労働だった。
デリヴィグバラティンスキーも同じく貧しかった:
 
 あの、セミョノフスキー連隊の、第5中隊の、低い屋根の小屋に、
 詩人であるバラティンスキーが、同じく詩人のデリヴィグとともに住んでいた。
 彼らは平穏に住んでいた、私に部屋代を払っていた、
 寝台兼長椅子の上にいなければならず、家で昼食をとることはめったになかった。

しかしながら、彼らのモットーは陽気な貧しさと怠惰であった。デリヴィグとバラティンスキー、そして彼らの詩人グループにとって、陽気な気分は単に文学上のポーズだった:実生活において憂うつ質だったバラティンスキーは、詩《酒宴》を書き、のんきで陽気な気分を褒めたたえた。詩情において自己犠牲的な夢想家だったジュコーフスキイは、詩情において快楽主義者で実生活では病んで運の悪い人だったバーチュシコフよりも、日常生活が順調で楽しいものだった。プーシキンこそ、《詩的な》行為を現実に対する模範とした。詩的なたわむれと日常生活の《反抗的行為》は、彼の生活上の行為のごく当たり前の特徴となった。
 プーシキンを取り巻いている後見人たちや教師たち ― カラムジンからН.トゥルゲーネフまで ― は、彼が新しい自分の道を切り開いていることを理解できなかった:彼らの視点からすると、プーシキンは単に道から外れているだけだった。プーシキンの才能の輝きが目をくらませた、そして詩人たち、古い世代の社会的文化的活動家たちは、この才能を、ロシアのために守ることを自分の義務と考えた。彼らは、おなじみのもっともな道の方へ彼を行かせることが、必要不可欠なものとみなしていた。なじみのないものは軽薄なものと思われたのだ。プーシキンの周囲には好意的な者たちが大勢いたが、彼を理解していたものは、あまりに少なかった。プーシキンは教訓や、皆が彼をまだ青二才と見なしていることに疲れていた、それで時には皆に面当てに、わざと子供っぽいふるまいをした。
ジュコーフスキイはアルザマス会の席でこう言った:《コオロギは、悪ふざけの割れ目に体が埋まって、そこから叫んでいる、まるで詩にあるように:《おっくうだ!》(そういうふるまいは、生活上では禁じられているが《詩においては》許されている、という典型的な確信である)¹。
  ¹1884年の帝立公共図書館の報告.サンクトペテルブルク,1887,p.158,прил.
А.И.トゥルゲーネフは自分自身の言葉で、《個人教育についての怠惰と怠慢に対して》毎日プーシキンをとがめていた。《それに加えて、女の尻を追い回す下品な趣味、自由思想、さらに18世紀の下品なものに対してもであった》¹
 ¹Б.Л.モジャレフスキーの注釈:プーシキン.手紙,第1巻,モスクワ,1926,p.191.
バーチュシコフはА.И.トゥルゲーネフにこう書いた:《彼をゲッチンゲンに閉じ込めて、3年くらい牛乳入りスープと論理学を食べさせるのは悪くないかもしれません》²。
  ²2《ロシア古文書》,1867,No.11,стб.1534

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