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プーシキン伝記第3章 南方 1820-1824⑨

いまここではプーシキンが、本人の告白によると、《いままで一度も満喫したことがなかった》、そしてそれを精神的にひどく渇望していた、家庭的な幸福と相思相愛の雰囲気が支配していた。プーシキンはまるで身内のように、まるで家族の一員のように、そして同時に子供としてではなく同等の者として、このグループに無条件に受け入れられた:まだ少女の娘たちは彼よりも若かったが、同じく自分を大人の貴族の娘として感じようともがいていた、そして将軍自身にも子供のように無邪気なところがたくさんあった。(バーチュシコフによる彼の特徴描写を見よ:《ラエーフスキイは非常に頭が良く驚くほど誠実で、子供っぽいところすらある》)、無邪気さは実際に賢い人々によくみられるものである。ラエーフスキイ家の小さな世界はまるで、すべての人間関係が愛と平等に基づいているという人間生活のユートピアを、縮図化して再現しているようだった。また、あたりには別の世界 ― 好戦的で野蛮な、自由気ままな山岳民の世界と、同じくらい自由気ままな国境コサックたちの世界が広がっていた。この世界は不断の戦いを知っていたが、奴隷制度を知らなかった(もしプーシキンがリツェイとペテルブルクで身につけた政治思想のプリズムを通してその世界を見るならば)。小さな世界は愛と幸福で惹きつけた、大きな世界は ― エネルギーと野蛮な自由で惹きつけた。ともに魅了した。
 このような状況において、追放者の境遇、悲劇的なエゴイズム、取り巻いているものすべてを呪いたい、また心の内に住みついている誇り高く巨大なイメージのなかに閉じこもりたいという欲求といったロマン主義的な詩情は、詩人の自分自身の経験や個人的な感情に、支えを得ているわけではなかった。これは、ロマン主義的な認識とロマン主義的な個人主義が、著しく和らいだ形でプーシキンの現実認識に反映することをもたらした。それらの行く道には、それらの動きにブレーキをかけつつ、プーシキンの考え深くに入ってきた、自然に従った幸福な生活についての、文明の拒否を代償にして買われた誇り高く闘争的な自由についての、そして率直な人間の感情の力についての18世紀の思想(主にルソー)が生じた。《魂の早すぎる老化》は、世間ではすでに天才の宿命ではなく、病んだ文明の子の病、自然の名もない子たちの病のように見られていた。
 生存する伝記作家は、詩人-プーシキンと人間-プーシキンの相関関係に対してニつの基本的なアプローチを知っている。そのうちの一つに従えば、詩人は自分の創作に極めて誠実である、つまり詩情は、彼の個性の深奥を明らかにする、申し分ない伝記的資料となっている。もう一つに従えば ― 詩人は創作の時、まるで別人になったかのように変貌する、したがって詩人には二つの伝記がある:実生活の伝記と詩的な伝記である。《プーシキンのもつ、彼の生活における体験とそれらの詩情への反映との間の目を射るような不一致は、本当に驚くべきものだ》、 ― と論証したのはВ.ヴェレサエフであった¹。

¹ヴェレサエフ В. 2つの視点. プーシキンについての論文, モスクワ, 1929, p.135.

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