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プーシキン伝記第二章 ペテルブルク 1817-1820⑭

 この精神的不安定な時期、プーシキンにとって救いとなったことは、П.Я.チャアダーエフと親しくなったことであった。
 プーシキンがまだリツェイの学生だった頃にカラムジンの家で知り合った、ピョートル・ヤコヴレヴィチ・チャアダーエフは、その時代の並外れた人物の一人であった。優れた家庭教育を受け、彼の祖父に当たる歴史学者М.М.シェルバートフの家で、文化的貴族階級の一族の環境で育ったチャアダーエフは、16才でセミョノフスキー近衛連隊に入隊し、ボロディノからパリまでの行程を通過した。我々にとって興味深いこの年に彼が親衛隊の軽騎兵連隊に登録され、軍務大臣ワシリチコフの副官となり、ペテルブルクのデムートフの旅館¹に部屋を借りて住んでいた。《チャアダーエフは美男子で、軽騎兵としてではなく、どこかイギリス人のような、ほとんどバイロンとでもいえるような物腰で際立っていた、そして当時のペテルブルク社会において輝かしい成功を手に入れた。》²
 チャアダーエフは福祉同盟のメンバーだったが、そこでは積極性を見せなかった:緩慢な普及戦略、自由愛好思想と慈善事業の拡大は、おそらく、あまり彼を惹きつけなかった。チャアダーエフは栄誉 ― ロシアとヨーロッパの歴史の石碑に彼の名を永久に刻み込むような、絶大な、前代未聞の栄誉を熱望するとりことなっていた。ナポレオンの実例が彼を夢中にさせ、一方で、自分が選ばれた者であり、自分を待ち受けている特別な運命についての考えを、生涯捨てなかった。彼を惹きつけたのはロシアのブルータス、あるいはロシアのポーザ侯爵の人生であった³:
  ¹ネフスキー大通り付近にたつ、モイカ川沿いのホテル
  ²スヴェルジェーエフ Д.Н. 手記, 第2巻, モスクワ, 1899, p.386.
  ³ブルータス ― 古代ローマ時代の政務官で、カエサルを殺害した組織  
   の一人;18世紀から19世紀初頭の文学における、共和主義者の英雄と
   しての人物像。ポーザ侯爵 ― シラーの悲劇《ドン・カルロス》の
   主人公、暴君に働きかけようと試みる共和主義者。
自由の名のもとに短剣で暴君を刺し殺すこと、あるいは情熱的な説教で暴君を魅了することに、本質的な違いはそれほどない;重要なことは別のこと ― 自由を求める闘い、英雄的な死、そして不滅の栄誉は、この先必ずある、ということである。
 チャアダーエフの書斎にて:
   そこでは君はいつも賢者、ときには夢想家
   そして軽薄な群衆の 冷静な観察者  (II,1,189)

― プーシキンは1821年このように書いた ― 偉大な雰囲気が詩人をとりこにしていた。
 チャアダーエフはプーシキンに偉大なる未来に備えること、自分という人間を尊重すること、人間の名前は子孫に属するものであることを教えた。チャアダーエフはまたプーシキンに課題を与え、彼に《時代とともに啓蒙を始めること》を要求した。しかしながら彼の教えは、プーシキンを生徒ではなく、英雄の立場に立たせるものだった。その教えはプーシキンを侮辱せずに、自分自身の目線まで高めるものだった。
 チャアダーエフがプーシキンに備えておくように呼びかけた偉大なる未来は、部分的にのみ詩趣に結びついた:デムートフの旅館の書斎では、おそらく、ブルータスとカッシウスの偉業 ― 剣の一撃で祖国を暴君から解放することをロシアで再び繰り返すことについても話されていた。デカブリストのヤクーシキンは自らの回想録の中で、1821年にカーメンカで、デカブリストたちが、ラエーフスキイ(将軍の息子)の容疑を晴らすために、秘密結社を結成する場面を演じ、すぐさますべてを冗談だと茶化した時、プーシキンは悔しそうに叫んだ:《私はすでに私のより高尚になった人生を、目の前に気高い目標を見ていた》¹。《気高い目標によってより高尚になった人生》、《寛大な目標》(XIII,241) ― これらのプーシキンの言葉には、偉大なる使命に対するあこがれがある。破滅すら ― もし人間が《歴史に属する》活動によって破滅に結びつくならば、羨望の対象であった。
  ¹ヤクーシキン И.Д. 手記,論文,手紙. モスクワ, 1951, p43.
チャアダーエフとの対談はプーシキンに、自分の人生こそ《気高い目標によってより高尚になった》とみなすことを教えた。暴君殺害についての会話の雰囲気だけが、誇りに満ちた言葉を説明しうるだろう:
        そして専制の遺物に
        われわれの名前が書かれるだろう!  (II,1,72)

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