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プーシキン伝記第3章 南方 1820-1824①  

 プーシキンはエカテリノスラフ(現ドニエプロペトロフスク)へ向かった、そこには当時、ロシア南部の外国人居留者の指揮官であるインゾフの官邸があった。彼の事務局へプーシキンは配属された(インゾフはまもなくベッサラビア総督、のちにノヴォロシースキイ地方総督の職務を果たすことを任命され、彼の手には絶大な行政権が集中した)。形式的にはプーシキンは流刑に処されなかった:出発には職務上の転任という性質を付与された。しかしながらプーシキンの上官(プーシキンは外務省に勤務していた)、自由主義的な大臣カポディストリアス伯爵は皇帝の命により、インゾフ宛に手紙で若い詩人のあらゆる《罪》を書き連ねた。この処置は、しかしながら、逆の効果を持ち始めた:フリーメーソンの副次的なメンバーで、Н.И.ノヴィコフН.Н.トルベツコイの友人であり、ノヴィコフ・グループの道徳的雰囲気のなかで教養を身に付けたインゾフは、真の勇気(彼はスヴォーロフミロラドヴィチクトゥーゾフらの指揮下で数十年にわたる会戦に参加し、すでにトレビアノヴィ付近では連隊を、またベレジナ川付近やライプツィヒでは ― 師団を指揮していた)を稀有な博愛心と結びつけていた(彼は捕虜となったフランス人に対する人道的扱いに対してフランスのレジオンドヌール勲章を特別に授与されていた)。彼はスパルタ式の生活様式を営み、ラジーシチェフ派の詩人プニンの青年時代の友人であり、若者たちの自由主義的な傾向に密かに賛同していた。カポディストリアスの手紙はインゾフにとってはよりよい推薦状となり、彼はすぐにプーシキンの後見人となった。
 モスクワ街道から南方へ向かう詩人のルートは ― ルーガヴェリーキエ・ルーキヴェテプスクモギリョフチェルニゴフ、そしてキエフであった。ツァールスコエ・セローまで彼を見送った友人は ― デリヴィグとヤコヴレフであった。そこから先は、彼は農奴の従僕ニキータ・コズロフを伴い、一人で行った。背後にはペテルブルクでの生活 ― 行く先にあるのは一本の道のみ。放浪の時期、定住地もなく、日常もない生活が始まった。その時期は長く、詩人がミハイロフスコエの両親の家の敷居をまたいだ1824年8月9日まで続いた。


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