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プーシキン伝記第3章 南方 1820-1824⑦

そこでわたしは3週間過ごした。わが友よ、私は人生において最も幸せな時間を尊敬すべきラエーフスキイの家族に囲まれて過ごした。私は彼に英雄、ロシア軍の誉れを見たのではなく、私は彼の明晰な知性と、率直な、すばらしい心を持つ人物;寛大で世話好きな友、いつも感じのよい、やさしい主人を愛した。エカテリーナ女帝時代の目撃者、1812年の記念碑;偏見を持たず、強い気質を持ち、感受性の鋭い彼は、ただ彼の高い資質を理解し評価するに値する者ならだれでも、われ知らず自分になつかせているのだ。彼の長男はさらに有名になるだろう。彼の娘たちはみな ― すばらしい、長女は ― 非凡な女性だ。考えてみてほしい、私がどんなに幸せだったか:感じのよい家族に囲まれた、自由奔放でのんきな生活;私がこれほど愛し、いまだかつて一度も満喫したことのない生活 ― 幸せな、南方の空;魅惑的な地方;想像力を満たす自然 ― 山々、菜園、海;わが友よ、いとしい私の願い事はもう一度、南方の岸辺とラエーフスキイ一家に会うことだ》(XIII,17-19)。
 1820年8月19日の夜、プーシキンはラエーフスキイとブリッグ型軍用帆船ミングレリヤ》に乗ってグルズーフに到着した。航海中、甲板で、彼は哀歌《太陽が消えた…》を書いた。それは彼の詩趣において新たな時代のはじまりを意味していた。グルズーフで彼は9月初めまで過ごし、《海で泳ぎ、ブドウを食べすぎた》(XIII,251)、また我々の手には残されなかった著作物《ドン・コサック黒海コサックに関する意見》を書き、いくつかの哀歌と《カフカスの捕虜》の執筆を始めた。ここで彼は自分にとって新しい2人の詩人 ― アンドレ・シェニエバイロンを発見し、英語を体系的に勉強し始めた。
 9月初めにプーシキンはН.Н.ラエーフスキイ息子Н.Н.ラエーフスキイの一行とともに、馬に乗ってグルズーフを後にした。彼らはアループカシメイーズセヴァストーポリを通過して、バフチサライに着いた。そこでハンの宮殿を見物し、そのあとシンフェローポリへ向かった。9月半ばにプーシキンはクリミア半島を離れ、オデッサを通過してキシニョフへ向かった。その当時インゾフはそこに自分の官邸を移転していた。
運命がプーシキンに与えた短い休暇が終わった。キシニョフは静かな辺境ではなかった ― それは当時最も重大な政治的かつ軍事的衝突の十字路にあった。キシニョフでの生活はいくつもの難題を課し、答えを要求していた。多くの点でその生活は、プーシキンをペテルブルクで過ごした時期の問題へと引き戻していた。しかし詩人自身はすでに別人であった。
 プーシキンはキシニョフに、一時的な留守や外出も含め、1820年9月21日から1823年7月2日まで滞在した。ここで彼はギリシア人の蜂起と結びついた多くの希望とその粉砕を身をもって知り、オルロフのグループの《開戦直前》の状態にある空気を吸い込み、そして、結局公然たる専制政治との会戦を待たなかったこのグループが崩壊する目撃者となった。ここで詩人は精神的高揚の時と苦い失望の時を体験したのだ。

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