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プーシキン伝記第二章 ペテルブルク 1817-1820⑨

 1819年、グリンカはペテルブルクにてロシア文学愛好者自由結社の議長に選ばれた。その結社は、デカブリストの活動に理解ある文学者たちの団結において、特別な役割を果たさねばならなかった。プーシキンはグリンカ ― 高潔な心の清らかさと剛毅さをもつ人間 ― の個性から強い影響を受けた。明確なやり方で、グリンカはプーシキンを合法的な活動に引き込み、徐々に非合法活動の結社へと導いていった。プーシキンと福祉同盟との接触は、別の点からも見受けられる。まだリツェイにいた頃、プーシキンはニキータ・ムラヴィヨフと知り合いになった。1817年に、ムラヴィヨフが《アルザマス会》に加入したことから、この交際が再び始まった。彼はすでに、デカブリストの最初の秘密結社 ― 救済同盟の創始者の1人だった。おそらく、ニキータ・ムラヴィヨフを通じてプーシキンは、福祉同盟の会議に参加するように導かれた。そこでの会議はそれほど厳格な非合法活動の性質はなかったが、結社の影響を広めることに寄与しなければならなかった。何年か経って、プーシキンは《エウゲーニイ・オネーギン》第10章を執筆するときに、この会議を描写している:

 激しい雄弁で有名な、
 このグループのメンバーが集まった
 不安そうなニキータのもとに、
 用心深いイリヤもとに。
 マルスとバッカスとヴィーナスの友、
 彼らに激しくルーニンは提案していた
 自分たちの決定的な手段を
 そして気を高ぶらせてつぶやいていた。
 自分のノエルを読んだのはプーシキン、
 ふさぎ込んでいるヤクーシキンが、
 黙って抜いたように思われた
 君主殺しの短剣を
            (VI,524)

訳注)ノエル:フランスの古いクリスマス・ソング。プーシキンは自分の諷刺詩のうちの一つ《昔話。ノエル》(1818)をノエルと名付けている。

この詩行は長い間、詩における虚構のように思われていた:プーシキンがこのような類の会議に参加することはありえないと思われていた。しかしながら1952年、М.В.ニェーチキナは、デカブリストだったН.Н.ゴールストキンのの調査において、このような証言を発表した。ゴールストキンは、(もちろん、戦術上の態度として、記述されている会合の意義を低く見るというゴールストキンの十分根拠ある意図を考慮に入れる必要があるが)こう伝えた:《最初は自ら進んで集まりはじめたが、後には10人程度集まるのがやっとだった、私は2,3回程、イリヤ・ドルゴルーコフ公爵の家に行った、彼はその当時、重要な人物の1人のように思われた。そこでプーシキンは自分の詩を読んだ、皆その鋭さに感嘆していた、いろいろとばかげたことを話し、読み、またある者たちはささやいていた、といった次第である;一般的な会話は決してどこにもなかった<・・・>私は夜毎にニキータ・ムラヴィヨフの家を訪ねた、そこでかなり頻繁に、結社に全く属していない者たちに会った》¹。
 ¹《文学遺産》1952,第58巻,p.158-159.

 付け加えるならば、詩の連に名指しされたルーニンヤクーシキン ― デカブリスト運動にいて重要な活動家 ― は、この時期にプーシキンと知り合いになった(ルーニンとは1818年11月19日にイタリアへ出発するバーチュシコフの送別会の時に知り合い、あまりに仲良くなったためか、1820年にルーニンが出発する際に、プーシキンは自分の髪の房を切り記念として渡した;ヤクーシキンにプーシキンを紹介したのはチャアダーエフだった)。プーシキンとデカブリストとの関連図は十分に明らかになっている。しかしながら、我々は問題の別の面について着手しないならば、その関連図は完全には終わらないだろう。

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