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プーシキン伝記第3章 南方 1820-1824㉗

 1820年11月、福祉同盟の会議に出席するため、М.オルロフはデカブリストのИ.Д.ヤクーシキンを伴いキシニョフからモスクワへ向かった。その道中で彼らはカメンカに立ち寄った。当時そこには、自由の身になった多くの南部の非合法活動家たちが集まっていた。その場所に、ダヴィドフ兄弟の願いにより許可されたプーシキンがいた。ヤクーシキンの回想録にそのときの光景が鮮明に残されていた:《毎晩、私たちはワシーリイ・リヴォーヴィッチの部屋で過ごした、私たちの夕方の対談は全員にとって、とても面白いものだった。ラエーフスキイは、彼自身は秘密結社に属していず、彼の存在を疑っていたのだが、彼の周りで行われているあらゆる事に不自然な好奇心をもって眺めていた。彼は私がたまたまカメンカに立ち寄ったことを信じなかった、それで私の到着の理由を知りたがった。最後の晩に、オルロフ、В.Л.ダヴィドフ、アホートニコフ、そして私は、私たちが秘密結社に属しているのかいないのかについてラエーフスキイを混乱させるために行動する申し合わせをした。私たちの討議の場での従来のしきたりに従い、議長にはラエーフスキイが選ばれた。〈…〉オルロフは、ロシアにおいて秘密結社の創設がどれほど有益であったのか、という質問をした。彼自身は秘密結社に賛成と反対の意見を皆に述べていた。В.Л.ダヴィドフとアホートニコフはオルロフの意見に賛成だった;プーシキンは、ロシアの秘密結社がもたらすことができるあらゆる利益を熱心に証明していた》。討議の終わりには、すべてが冗談に変えられた。プーシキンは《真っ赤になって立ち上がった、そして目に涙を浮かべて言った:《私は今ほど不幸だったことはいまだかつてない;私はすでに私の前途にあるより高められた人生と高遠な目標を見た、そしてこれはすべてただの意地悪な冗談だったのだ》。この時の彼は非常に素晴らしかった。》¹
 別のエピソードはВ.Ф.ラエーフスキイ少佐の逮捕に関連している。自らの回想記の中でラエーフスキイ自身が伝えているように、プーシキンは、偶然サバネーエフ将軍とインゾフ将軍との会話を聞き、そこでサバネーエフがラエーフスキイの逮捕を要求していることを知ると、デカブリストに危険を警告した。ラエーフスキイは《不要だと認めたすべてのものを燃やす時間があった》²。ラエーフスキイは大胆だが慎重さに欠いていたため、プーシキンの警告に対して無頓着な態度をとった、そして彼が逮捕された後、重要文書の束が政府の手に渡った。彼はプーシキンのおかげでできたはずの準備をしなかったため、彼の身の周りの捜査の結果は秘密結社にとって破滅的なものとなった、と予想される。
 これらのエピソードは明らかに、プーシキンが南方における陰謀の参加者たちと親しい関係にあったこと、彼らの精神的日常生活に本質的に関与していたこと、また自らの運命を《高遠な目標》に結びつける彼の精神的高揚、そして彼らの側からのある程度の警戒心を描写している。
 なぜ、第2連隊のデカブリストたちはプーシキンと親密な関係にあって、陰謀参加者に加わりたいという彼の歴然たる希求を前にしながら、彼に秘密結社に入ることを勧めなかったのだろうか?二重の警戒心がある種の影響を及ぼした:一方では、詩人の才能を危険にさらすことに気がすすまないこと³、他方では ― 追放されたプーシキン ― 政府の注意がいっそう強められた、性格も気質も自制できない人物 ― は、結社に望ましくない当局の注意を引き寄せかねないという見解である。しかしながら、芸術と芸術分野の人々に対するアプローチにおけるデカブリストたちの一定の視野の狭さも指摘しなければならない。
 
¹同時代人の思い出のなかのА.С.プーシキン, 第1巻, p.365-366.
²《文学遺産》, 1956, 第6巻1号, p.76
³デカブリストであるヴォルコンスキーの息子ミハイルに基づく資料によると、彼の《父は彼(プーシキン ― ロトマン註)を結社に受け入れることを任され、父はそれを実行しなかった》、詩人の才能を大切にするために(《文学遺産》, 1952, 第58巻, p.163)。もしこの資料が正しければ、プーシキンがしばしばヴォルコンスキーと会っていたオデッサ時代によるものとして間違いない。


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