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プーシキン伝記第3章 南方 1820-1824②

 プーシキンとペテルブルクの雑然とした充実した生活を引き離した道が、彼に周囲の状況をよく見きわめる機会を与えた。主な結果はこういうことである:1817年6月11日に希望に満ちあふれた少年はペテルブルクにやって来た、1820年5月6日にツァールスコエ・セローの関所を越えて、すでに仲間内だけではなく、名声を得て世間的に認められた詩人は出発した。5月15日に検閲官のティムコフスキイは物語詩《ルスランとリュドミーラ》に出版許可の署名をした(7月末から8月初めに世に出た)。しかしながらその作品のいくつかの断片はすでに1820年の春から出版され始め、まだ詩人が流刑に処される以前に、作品は口頭で読まれ、ペテルブルクの文学者たちのサークル内では評判になっていた。物語詩は相反する意見を呼び起こし、決してその意見のすべてが称賛しているわけではなかった(物語詩をめぐって批判的な論争が白熱化していたその時、プーシキンはすでに南方にいた)、それでも絶対的に明らかなことが一つあった:今後プーシキンの人生の歩む道は明確に定まった ― 自分自身の目で見ても、社会の目で見ても、これからの彼は詩を書く腕白小僧ではなく、詩人なのだ。
 この自意識が自らの活動分野を尊重する感覚でプーシキンを満たし、彼にこう告げていた、生徒である時期は終わった ― 今はもう聡明な教師たちはいない、また、自分自身で自分の創作物の性質や、自分がどのようにふるまうかを判断しなければならない、と。この問題は新たな意味を持ち始めた:詩人とはどのように行動すべきなのか?プーシキンは自らにこう答えた、今後自分の人間的な性格、行為、容姿すら謎めいて現れるだろう、しかしそれらは自分の詩情と強固に結びついている。
 詩人の人生、人格、運命は、世間に対してある種の不可分の一体を成しつつ、創作物と一つになっていくという認識は、ロマン主義時代のものである。前の時代において作品は自分の読者にとって、作者から独立して存在した。作品において評価されたのは、作者の個性の反映ではなく、唯一の、永遠の、フランスの哲学者デカルトの表現によれば《太陽のように明らかな》 ― 真理に近いことであった。作者の伝記は創作物に対して、直接関係ないものとして受け入れられた ― 伝記は最も重要な格調高いジャンルにおいても(例えば、頌歌において)、また哀歌においても、反映を見出されなかった。主に滑稽な、《低俗な》作品においてのみ、示唆という形で許されていた。読者は詩人の人生に彼の詩の意味を解くカギを見つけようとはしなかった。もし読者の手に作家の伝記が与えられたならば(これは、通常すでに亡くなった、偉大と認められた詩人に対してのみ可能だった)、伝記には統一化された理想的な象徴に作家を近づけている、ある種の普遍的な聖像画の特徴が際立っていた。人間にある、その人個人を形成するものはすべて ― 無視されていた:伝記は、実際のところ、人生と職歴との間で揺れていた。

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