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プーシキン伝記第二章 ペテルブルク 1817-1820④

 協調、結社、兄弟のような一体感への欲求は、この数年間のプーシキンの行動にも特徴を成している。彼が様々な文学的な友達グループと自らを結びつけているエネルギーは、驚嘆を呼び起こし得る。注目すべき一つの興味深い特徴がある:この数年間のプーシキンの注意を引きつけたグループの誰もが、明確な文学的・政治的な顔を持っていて、文学論争で鍛え抜かれた、あるいは戦争の傷跡で覆われた人々が、プーシキンの中に入り込んできた;彼らの興味や見解はすでに確定していて、判断と目標は断固たるものだった。一つのグループに属することは、概して、別のグループに参加することを排除している。彼らのグループの中でプーシキンは、出会った人々を探求する者としてひときわ目立っている。プーシキンが成年に達したことだけがその理由ではなく、生涯にわたってプーシキンに深く特徴的である ― その時はまだ盲目的ではあるが ― あらゆる一面性からの逸脱が理由でもある:あちこちのグループに入っては、彼はリツェイ時代の叙情詩にロシア詩の形式を採り入れたのと同様、非常に気軽にグループ内で支配的なスタイル、グループのメンバーたちの行動と演説の特徴を採り入れている。しかし、リツェイ時代に書かれたどの詩においても、すでに様式的ジャンルとして確立した規範の習得がより卓越していればいるほど、そこには他ならぬプーシキンそのものが現れている。なにか似たようなことが1817年から1820年の間、詩人自身の人格の構成圏に起きていた。普段とは違った気軽さで、どのグループにも受け入れられていた《遊びの条件》を身に付け、対談者である指導者たちの誰からも要求された友達としての交流スタイルに乗っかりながら、プーシキンは他人の性格と規範に埋没することはない。彼は自分自身を見つけている。
 プーシキンの、一つのグループからもう一つのグループへと移りながら変化する、そして全く異なる人々との交流を探し求める能力は、必ずしもデカブリストたちのグループ内で承認を得られたわけではなかった。親しい友人であるИ.И.プーシンでさえこう書いた:《プーシキンは、自分の見解に従う自由主義者であるが、自分の気高い性格に反した行動を取るいかにもあわれな習慣を持っていた、そして非常にしばしば、オーケストラのオルロフやチェルヌィシェフ、キセリョフ、その他の人々のそばにまとわりつくことが好きで、私と私たちほとんど全員を怒らせた〈…〉よくこう言ったものだ:《君はなにを好んで、愛すべき友よ、こんな連中の世話をするんだ:彼らのうち誰にも、同情心なんて見当たらないのに》。彼はがまんして終わりまで聞くと、少しでも当惑するといつもやるように、くすぐったり、抱擁したりし始める。そして、目にするだろう、 ― プーシキンが再びその当時の獅子たちと一緒にいるのを!》¹
 ¹同時代人の回想の中のА.С.プーシキン,第1巻,p.98.

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