見出し画像

プーシキン伝記第二章 ペテルブルク 1817-1820⑫

 プーシキンの仲間の青年たちの《たわむれ》がどのようなものだったのかを示しているのが、《緑のランプ》である。これは1819年春に発足した、文学と演劇の友好団体である。《緑のランプ》はニキータ・フセヴォロシュスキーの家に集まった。フセヴォロシュスキーの家の会議について、世間では不明瞭なゴシップが流れていた。プーシキンの最初の伝記作家たちの認識では、その会議は、羽目を外した酒宴をやらかす、堕落した若者たちの何らかの集まりといった外観で描かれていた。会議の議事録やその他の資料などの刊行物が、この説を決定的に払いのけた。Ф.グリンカС.トルベツコイЯ.トルストイといった人物たち ― デカブリスト運動の精力的な活動家たち ― が《緑のランプ》の指導者として参加していたことは、会議の真面目な社会的意義を持つ性質について証明するのに十分な論拠である。会議で読まれた作品を発表し、《緑のランプ》³の歴史的文学的関心を分析することは、最終的に、この組織とデカブリスト運動との関係についての認識をゆるぎないものとした。
  ³トマシェフスキイー Б. プーシキン,第1巻(1813-1824).М-Л.,1956,p.193-  
  234.
 この資料からの印象があまりに大きかったため、文学研究における《緑のランプ》についての認識は、単に福祉同盟の合法的な支部としてできあがった(似たような支部の創設が同盟の規約によって奨励された)。しかしこのような認識は状況を単純化している。疑いもなく《緑のランプ》は、おそらく、自己の影響力を広げようと目指している福祉同盟の視野にあった。しかしながら緑のランプの志向は、福祉同盟による道徳的厳格さと国民的奉仕という、深刻で広く浸透した雰囲気と、完全に同種のものというわけではなかった。《緑のランプ》は、自由愛好と真面目な関心と、数々の遊び、抑えがたい陽気な気分、《真面目な》世の中にたいするこれ見よがしの挑戦の雰囲気を、合わせ持っていた。反抗的行為、自由思想は、《緑のランプ》に関連したプーシキンの詩や手紙に浸透している。しかしながらそれらはすべて、福祉同盟の深刻さとは決定的に無縁の、きわめていたずらっぽい性質を持っている。
 《ランプ》での友人で、アラクチェーエフ指揮下の軍務でノブゴロドに行ったП.Б.マンスロフに宛てて(ノブゴロド近郊には屯田兵制度が敷かれていた)、プーシキンは1819年10月27日に手紙を書いた:《緑のランプが燃えて丁子頭ができた ― たぶん消えるだろう ― 残念だ ― 油があれば(つまり我らの友のシャンパンがあれば)。君は書いているか、私の仲間 ― 私に書いてくれるか、私の独身の友。私に話してくれないか、自分のことを ― 屯田兵制度のことを。これはすべて私に必要なことだ ― なぜなら私は君のことが好きで ― 専制政治が嫌いだから。さようなら、かわいい足君》そして署名:《コオロギ А.プーシキン》(XIII,11)。この組み合わせ《専制政治が嫌い》と《独身の友》、《かわいい足君》(はるかに無遠慮な別の表現もある)は、《緑のランプ》に特徴的であるが、デカブリストの非合法活動の精神とは決定的に無縁である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?