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プーシキン伝記第二章 ペテルブルク 1817-1820②

読者を前にして、また自分自身を前にしても、プーシキンは逃亡者、自由意志の追放者のイメージを演じている。ヨーロッパ・ロマン主義の人物像のストックから借用されたこのイメージは、時に現実的で伝記的な内容を持つことになる、そしてこの詩:
〈 ? 〉非難の声も、
   甘い希望の呼び声も恐れない、
   旅行服から祖国の埃をはらうため
   異郷を歩く (II,1,349)―

の後には、現実的なプランが書かれている《こっそりと杖と帽子を持ち、コンスタンチノープルを見に行く》(XIII,86)。しかしながら我々の前では、非常にしばしば、現実を転化した詩的意味付けがなされる。人生における散文的な出来事 ― 南方への強制的な追放は、詩においてはこのようになる:
   新たな印象の探索者、
   私はあなたのもとへ逃亡した、父祖伝来の土地へ…

ポエジー(詩情)においてリツェイは ― 打ち捨てられた修道院であり、ペテルブルクは ― 輝ける魅惑的な脱走の目的である。現実生活においてはすべてが異なる:詩人の両親はペテルブルクに移転したが、プーシキンはリツェイから家に帰る;興味深いことに、コロームナの《ポクローフ教会通りの》プーシキンの家は、フォンタンカ川の近くのクロカチェフ住宅にあって、それは要するに辺境のイメージであり、ゴーゴリの表現によれば、《なにもかも静寂につつまれた退役の地》であり、のちに《コロームナの家》と《青銅の騎士》のなかで現れるのだが、1817年から1820年のプーシキンの創作には存在しない;リツェイからプーシキンは姉に書簡を書いている ― ペテルブルク時代のポエジーにおいては、姉にも他のいかなる《家族に関する》テーマにも、触れられていない。

 ペテルブルクでプーシキンは、1817年6月初めから(6月9日にリツェイの卒業式が行われ、同月11日から彼はすでにペテルブルクにいた)、彼がツァールスコエ・セローの道を出発し、南方の追放地へと向かった1820年5月6日まで暮らした。プーシキンが自分の空想のなかで暖めていた軍務に就く計画は、放棄しなければならなかった:出費を恐れた父が(親衛隊の軍務は多額の費用を要した)、文官勤務を要求したのだ。プーシキンは外務省に採用され、6月13日に宣誓した(同じ日に、キュヘリベーケルとグリボエードフも宣誓した)。
 ペテルブルクにはプーシキンを夢中にさせた。燕尾に切り込まれたゆったりした黒い燕尾服(このような燕尾服はアメリカ的と呼ばれた;そのこれ見よがしの粗雑さは乗馬すると粋で洗練されていた)を着て、つばの広いの帽子、ボリヴァル帽(帽子のつばがあまりに広いので、頭から脱がずに狭いドアを通り抜けることができなかったと言われている¹)をかぶり、彼は、強いられた6年間の孤独の埋め合わせをしようと急いでいた。
  ¹Пыляев М.И. 昔の生活. 概説と物語. サンクトペテルブルク,1892,p.104

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