見出し画像

プーシキン伝記第二章 ペテルブルク 1817-1820⑦

 ツァーリの善意はすでに信じられなかった。しかし福祉同盟のメンバーは、アレクサンドル一世が望んでいようといまいと譲歩しなければならない、進歩的な世論の方からの圧力に期待をかけていた。この目的のために福祉同盟は、文学と政治評論の助けを借りて、政治的陰謀の参加者が指導する世論をロシアで作ることが必要であると認めていた。したがって文学者には、二次的役割が割り振られた。純粋に芸術的問題がН.トゥルゲーネフの心を乱すことはめったになかった。1819年に彼は書いている:《ロシア人はどこで、公民意識の行動基準にとって必要なものを吸収することができるだろうか?われわれの文学は今まで、ほとんど韻文ただ一つに限られていた。散文による作品は政治的テーマには触れていない。》さらに続く:《韻文と一般的に優雅な文学は、われわれの精神を満たすことはできない》¹
 ¹《ロシアの愛書家》,1914,No.5,p.17
 ゲッチンゲン大学で学び、外交官であり政治家、政治経済に関する書物の作者であるН.トゥルゲーネフは、宣伝効果のある政治的叙事詩のみ例外として認めてはいたが、いくらか上から見下ろすように韻文を眺めていた。この見方を彼はプーシキンに吹き込もうとしていた。彼の弟、かけだしの外交官セルゲイは、自分の日記で深く考察し、彼に完全に賛成していた:《ジュコーフスキイは私にこう書いた、肖像画から判断すれば、彼は私の眼の中に自由主義思想が輝いているのを認めている。彼は詩人だ、しかし私は彼に本当のことを言うが、才能をあらゆる自由主義なものに費やさなければ、彼の才能は消失するだろう。今こそ、このような詩によってのみ、不滅をつかむことができる… 私に再びプーシキンについて、十分に発揮された才能について書いている。ああそうだ、急いで彼に自由主義を吹き込こもう、そして自分自身を嘆く代わりに、彼の初めての詩はこれに捧げるべきだ:自由に》²。《自分自身を嘆く》 ― つまり哀歌に対してトゥルゲーネフ兄弟は、多くのデカブリストたちと同様に、厳しい態度を取っていた。
  ²デカブリストН.И.トゥルゲーネフ. 弟С.И.トゥルゲーネフへの手紙. モスクワ‐ペテルブルク, 1936,p.59.
 Н.И.トゥルゲーネフの影響は、プーシキンの詩《農村》にはっきりと現われていた。この視点から頌歌《自由》の冒頭も特徴的である ― これ見よがしに恋愛詩を拒絶し、自由を愛する女神への呼びかけである。もちろん、この影響をあまりに直線的に解釈すべきではない ― 恋愛詩を非難する思想と恋愛詩と政治詩の対立は、デカブリストたちや彼らに近いグループの間では、ほとんど普遍的であった。別の、完全に独自の道を歩んできたビャーゼムスキイは、詩《憤激》において、同じ思想をきわめて似たイメージで表現した。
      そして私は、物思いでしわを寄せた額から、
      生気のない喜びの花冠を引きはがした…
    …私のアポロンが ― 憤激している!
    彼の炎のまえで私の自由な口から
      恥ずべき沈黙は破られるだろう
      そして勇ましい詩が燃えだすだろう。
 プーシキンの詩にはこうある:
      来たれ、私から花冠を奪い取れ、
      甘やかされた竪琴を打ち砕け…
      世界にむかって自由を詩に歌いたい、
      王座の欠陥に一撃を加えたい。(II,1,45)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?