プーシキン伝記第3章 南方 1820-1824⑧
クリミア半島での滞在は、その短さにもかかわらず(数週間だけだった)、プーシキンの人生と詩情に大きな影響力をもった:この時期までに、のちに詩人の意識において練り上げられ変容していったたくさんの創作上の構想と印象が生まれている。しかし、まさにこの時期は、きわめて重大な人生における印象と関係していた。クリミア半島のイメージは、幸せについてのプーシキンの認識に加えられた。1830年2月2日彼は書いた:《私の暗い悔恨の念のなかで、私を魅了し生気を取り戻すものはただ一つ、いつの日か私はクリミア半島にわずかな土地を持つだろう、という考えである》(XIV,63と399)。
カフカスとクリミア半島の風景は、ロマン主義的なイメージが生き生きと具現化されておおわれていた。ヨーロッパにおいて《オリエント》(《東洋》)が、急速に文学的紋切り型の体系になり、文学的流行になり始めると、詩人の目の前で日常生活の現実としてよみがえった。ペテルブルクではエキゾチックなおとぎ話のように思われたロマン主義は、カフカスでは一転して真実と人生に変化した。これは自分自身のなかに、ロマン主義的主人公の特徴を探すように突き動かした。ロマン主義的現実認識は、精神世界と周囲を取り囲む風景を、共通の、一般的な意味をもつ描写に溶け合わせることを可能にした。
しかしながら、この数ヶ月のプーシキンの気分の世界は決してロマン主義的基準を再現したようなものではなかった。ロマン主義的世界は悲劇的で自分自身に没頭している。たとえば、カフカスにおけるレールモントフの印象世界がそうである。プーシキンの世界は違っていた:彼の憤慨と激情に満ちたペテルブルクは、その時期、あっさりと削除されたことが分かった ― キシニョフとオデッサからたくさんの手紙が届いたこととは違って、この数ヶ月の間にプーシキンは一通も手紙を書かなかったことは偶然ではない。小さな世界はラエーフスキイ一家まで狭くなり、大きな世界は ― カフカスとクリミア半島の眺望まで広がったのだ。
ラエーフスキイ一家は最も幸福な一時を迎えていた:誉れ高く、傷を負った将軍ラエーフスキイ、幸福な父親であり魅力的な話し相手は、力とエネルギーに満ちあふれ、息子たちの名前は幼年期のまだ幼い頃から全ロシアにとどろき渡り¹、偉大なる将来にむけて準備をしていた。魅惑的で、十分に教養ある知性的な娘たちは、ロマン主義的女らしさの雰囲気を持ち込んでいた。将来この家族をこのようなことが待っていた:家族のお気に入りであった長男アレクサンドルの失敗した人生に対する失望、マリヤ・ニコラエヴナの英雄的で悲劇的な運命、デカブリストである夫をシベリアまで追って行った娘の肖像画を、最期の瞬間まで放さなかったラエーフスキイ将軍自身の死 ― すべてこのようなことは少しも、楽しげに行進する乗馬集団の参加者たちの頭には浮かばなかった。
¹ラエーフスキイは1813年に自分の副官であるК.Н.バーチュシコフに、質問に対する答えを述べた:《とんでもない、閣下!あなたではなかったか、あなたのご子息の手と旗を取り、こう繰り返しながら橋に向かっていったのは:前へ進め、若者たちよ:私とわが子らはあなたに栄光への道を開けます、あるいは何かそれに似たようなものを。》ラエーフスキイは笑い出した。《私はそんな風に気取って話したことは一度もない、君自身知っているだろう。実際、私は先頭にいた。兵士たちは後ずさりしていたので、私は彼らを元気づけたのだ。私とともに副官たちや伝令兵たちがいた。左側にいる全員を殺し、負傷させ、私には榴散弾しか残されていなかった。しかし私の子供たちはこの時いなかった。年下の息子は森で林檎を拾っていた(彼はその当時まったくの子供だった)、すると弾丸が彼のズボンを撃ち抜いた;それですべておわり、あらゆるアネクドートがペテルブルクで作られた。君の親友(ジュコーフスキイ)は詩にうたった。版画家、雑誌編集者、短編作家たちは好機を利用した、そして私はローマ市民勲章を授けられた。Et voila comme on ecrit lhistoire!》〈フランス語:《歴史とはこのように書かれるのだ》〉。(バーチュシコフ К.Н. 詩と散文の試み. モスクワ,1978,p.413-414.)
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