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プーシキン伝記第二章 ペテルブルク 1817-1820⑧

 頌歌《自由》がН.トゥルゲーネフの思想と似ている点は、恋愛詩と政治詩との対置だけではなく、思想の全分野、フランス革命とロシア専制に対する態度である。頌歌 《自由》は福祉同盟の政治的基本理念を表現し、Н.И.トゥルゲーネフの見解はそこに直接的なイメージで反映していた。¹
 ¹十分にまことしやかな伝記的伝説がある、それによると、頌歌《自由》はН.И.トゥルゲーネフの提案がきっかけだった、彼の部屋では窓からパーヴェル一世が暗殺された場所、ミハイロフスキー宮殿が見えた。(より詳しい説明:トマシェフスキー Б. プーシキン, 1巻. モスクワ‐ペテルブルク, 1956, p.147-148)。
 Н.И.トゥルゲーネフは厳格なモラリストであった ― プーシキンの行動とプーシキンの詩趣の全てが彼を満足させていたわけではなかった。政府に対するプーシキンの激しく非常識な行為、諷刺詩や、勤務に対する軽薄な態度(Н.トゥルゲーネフ自身は、国家機関においても財務省においても責任あるポストについていて、勤務に対して非常にまじめな態度でのぞんでいた)は、トゥルゲーネフにプーシキンを《叱り、恥じ入らせる》ことを余儀なくさせた。А.И.トゥルゲーネフの言葉によると、彼はプーシキンに、《決して俸給を受け取ってはいけない、またそれを与える者を罵ってはいけない》ということを《一度ならず感じさせた》。一方、ある日、トゥルゲーネフ兄弟の部屋で会話中に、《政府に対する、彼の当時の諷刺詩などが原因で》詩人を甚だ辛辣な言い方で非難したので、プーシキンはН.И.トゥルゲーネフに決闘を申し込んだのだが、実際にはすぐに考え直し、謝罪とともに逆に決闘の申し込みを受けた。¹
 ¹デカブリストの記憶, 第2巻, レニングラード, 1926,p.122.
 ニコライ・トゥルゲーネフがプーシキンと福祉同盟を結びつける唯一の人物ではなかった。おそらく1817年の秋に、プーシキンはフョードル・ニコラエヴィッチ・グリンカと知り合いになった。グリンカは裕福ではないが古いスモレンスクの貴族の出であった。背は低く、幼少から病気がちであったが、戦場で見せた並外れた度胸(彼の胸全体はロシアと外国の勲章で覆われていた)と極端な博愛心で彼は際立っていた。スペランキーもまた、彼自身アラクチェーエフ・タイプの活動家が主流である状況において敏感なタイプの見本のように見えたのだが、彼でさえグリンカの、ロシアの現実的状況においての場違いな感受性の強さをとがめて、こう言っている:《村の墓地の死者全員に対して泣いてはいけない!》グリンカは有名な文学者であり、デカブリストの秘密結社が発足した早い段階で非常に精力的な活動家であった。福祉同盟の指導者の1人として、またペテルブルクの軍事総督ミラロドヴィッチのもとへ特別任務のために一時的に派遣された副官としての役割を両立させつつ、グリンカは秘密結社に重要な力添えをし、さらに1820年のプーシキンの運命を軽減するように強く働きかけた。

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