小説を書いていて思うこと。

ずっとシナリオを書いていたから、小説を書いていると、疑心暗鬼になる。
「これはほんとに小説なのだろうか?」
「文が稚拙過ぎないか?」
「ほんと、こんなんでいいのかな?」
と、疑心暗鬼しかないのだ。
しかし、書いているうちに、個性というのがあるのなら、どう書こうが、その人が書きたいように書くのが個性ではないか?
なんか、似せたりするのは、イコール、置きに行く、置きに行った文章、なんか小説という固定観念、先入観に寄せた文章。
それはオリジナリティ、個性とは言えるのだろうか?
そして、文章を書いていて、俺はシナリオ、即ち、映像を頭に入れて書くから、書いているとやがて、文章を書いているというか、自分が書きたい映像を文章でただ綴っているに過ぎない、という感覚を感じる時がある。
これが俺の書き方であり、誰にも寄せてない俺の文章、俺のドラマだ!
と、思うようになってくる。
けど、落ちる時は落ちる。
理由はわからない。
面白い、つまらない、の二択なのか?
でも、芥川賞でも直木賞でも、あんまし面白くなかった、という作品はなくはない。
物事って、ようは力のある人、もしくは多数派、インフルエンサーにささるかいなかで、世に出られるか否かが決まる気がしてならない。
謎の画家、バンクシー。
彼の絵は風刺画や、メッセージが風刺的意味合いが籠っているだけであって、しかも、謎の画家だけにじっくり書くわけではない。
即興画家。
それが、何日も一つの絵に打ち込んだ画家と比較できるのか?
おそらく、出来ない。
しかし、金銭的に、バンクシーの方がはるかに金額が、落札価格が高い時がある。
これもまた時代の流れにのったから、といえば、そうなのかもしれない。
俺はバンクシーの風刺画を家の安らぎの部屋に飾りたいとは思わないから、俺には刺さらない。
それは小説もそうなのかもしれない。
音楽もまた、そうだし、知らないだけであって、本当はこの人凄いという人はおそらく埋もれて、発掘されることはないのだろう。
第二次大戦下、フェルメールを模倣してヒトラーを騙した絵師がいた。それは戦後、その人が贋作を証明するため作って見せて釈放された。
それぐらい凄い人がいるということだ。

腐らず、自信作を作っていくこと。
それが大切なのかな。

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