【短編小説】レモンストリート
小学生の頃、電柱と塀の間が50センチくらいの、その隙間を通り抜けると、自分の潜在意識が望む世界線に行けるという設定の漫画を読んで、家から学校までの間にある条件がピッタリの電柱の隙間を、毎日通り抜けて通学していた。
何か家に問題があったわけでも、学校でイジメにあっているわけでもなく、比較的平和で平凡な毎日だった。
中流に入れていいくらいの収入のサラリーマン家庭で、両親と弟の4人家族。
成績は中くらいだけど図工は得意だったし、運動は少し苦手だけど、逆上がりは出来たし、自転車にも乗れたので、目立つ事もなければバカにされる事もなく、学校外で遊ぶ友達も2、3人はいた。
そんななんの問題もないように思える普通の小学生、それが私だった。
そんな小学生が、違う世界線を求めて電柱と塀の隙間を通り抜け続けていたのは、やっぱり心のどこかで、目立つ同級生への憧れや、弟の話題ばかりの家庭への不満があったのかもしれないと、今になってそう思うようになった。
そして、あれから15年以上も経った今、急にそんな事を思い出したのは、転勤により引越した町の、家からバス停までの間に、気持ちいいくらい丁度いい電柱と塀の隙間を発見したからだった。
その隙間は、家の近くの商店街を抜ける直前、大通りに出るちょっと手前にあった。
【レモンストリート】
その小さな商店街には、そんな名前がついていた。
レモンの生産地でもないのに。
でも私は、【レモンストリート】という名前を気に入っていた。
私の今を変える世界線へのロードとしては最高に爽やかで、酸っぱいアオハルのイメージが、本当に今を変えてくれそうだったから。
私は15年以上経って再び、潜在意識の望む世界線を目指して、毎日電柱の隙間を通り抜け続けた。
それは、小学生の頃の習慣よりも、少しだけ切羽詰まった感じで。
私は、突然人生に変化を求めてしまった23歳の時に、運送会社の事務職を辞め介護職に付いて6年、以前の職場ではリーダー的な立場で責任ある仕事をしていた。
にもかかわらず転勤を命じられたのは、イケナイ恋愛をしてしまったせいだった。
相手は、元職場のホーム長(妻子有り)。
この1行だけで、私の置かれた立場は容易に想像がつく筈で、新しい職場の居心地は最悪だった。
介護職はいくらでも働き口があるのだから、辞めて新しい職場に移る事も勿論考えた。
でもそうしなかったのは、小さな復讐心があるからだ。
私が退職する事で、前の職場のホーム長・戸田さんの気持ちを軽くしたくなかった。
小さな埃だって目に入れば鬱陶しい。
それくらいの鬱陶しさを戸田さんに感じさせなければ、私だけが処罰を受けた事への気持ちのやり場がないから。
その日の朝も、習慣的に電柱の隙間を通り抜けて職場に向かった。
ロッカールームで着替え、休憩室のソファに座って申し送り帳を開く。
私は昨日は早番だったので、遅番の分の申し送りを探したけど見つからず、何事もなかったのかなと不思議に思いながらノートを閉じた。
「ちょっと雨宮さん!遅刻するならちゃんと連絡入れて貰わないと困るじゃない」
その声に顔を上げると、怒ると鉄仮面のように表情がなくなるので、密かに『鉄仮面』と呼んでいるアラフィフの女性ホーム長が冷たく私を見下ろしていた。
遅刻?私は慌てて時計を見た。9時20分。
私は今日は日勤で、日勤は9時半からだから、遅刻では全くなかった。
「え?まだ10分も前ですけど」
「何言ってんの!あなた今日は早番でしょ!」
「いえ、私は今日は日勤です」
すると鉄仮面はシフト表を示して「ほら!早番じゃない」と、声のトーンを上げた。
「それって昨日のですよね」私は冷ややかに返した。
「は?あなた大丈夫?」と、鉄仮面が一歩も引き下がる気配を見せないので、私は壁掛け時計の日付に目をやった。
9月9日。
え?9日は昨日じゃ…?今日は10日の筈。
私は壁掛け時計が間違っているのかと思い、自分の腕時計を確認した。
やはり9月9日。えっ?!
「介護の現場は命の現場なのよ!あなたみたいにフワフワした気持ちでやられたら、いつ事故が起こってもおかしくない。もっと気を引き締めて取り組みなさい!」
わけがわからないでいる私の頭上に、鉄仮面からの叱咤が降り注いだ。
私は混乱しながら、食堂で10時のお茶の準備を始めた。
なんで?!絶対に昨日が9日で今日は10日の筈。いったいなんで⁈
もしかして…電柱の隙間を通り抜けたせいで1日前に戻ったとか?
そんな…!もしそれが本当だとしたって、たった1日⁈
たった1日でいったい何が変わるっていうの⁈
…あ!
私は急に思い出して、真ん中くらいの席の渡邊さんというおじいちゃんを見た。
昨日、お茶の準備をしている間に、1人で立とうとして転んでしまったのだった。
念のため病院でレントゲンを撮ってもらい、骨には異常がなく、軽い打ち身で済んだのだけど、高齢者の怪我は筋力や気力の低下に繋がって、寝たきりになってしまう確率がグンと上がるから、絶対に気をつけなければならない事で、私は自己嫌悪に陥ったのだ。
私は渡邊さんが杖に手をかけた瞬間、すぐに渡邊さんの元へ飛んで行った。
そして立ち上がってグラっと傾いたところを、間一髪で抱き抱えた。
「渡邊さん、大丈夫ですか?」
「おや、若いお嬢さんにハグされるなんて、どれくらいぶりでしょう」
渡邊さんはそう言って優しい笑顔を見せた。
そう、このおじいちゃんは少しボケているけど、とても紳士で、言う事が上品だったりウイットに富んでいて、すごく素敵な方なのだ。
昨日も自分が痛い思いをしたのに、反省して心配する私を気遣う言葉を沢山くれた。
良かった…渡邊さんが怪我をせずに済んで…。
「もうすぐ息子が珈琲を持って来てくれる頃だから、玄関まで向かおうと思ってね」
渡邊さんは大の珈琲好きで、ホームでのインスタントコーヒーがお気に召さず、レモンストリートでカフェを営んでいる息子さんが、バイクで毎日10時に届けてくれているのだ。
「いつもありがとうございます」
渡邊さんの息子さんは、渡邊さんそっくりな優しい笑顔でそう言って、私に珈琲の入った袋を手渡してくれた。
昨日は、ホームの車で一緒に病院に向かう心配そうな顔を、とても直視できなかった。
ああ、良かった!私はたった1日だけのタイムスリップに心から感謝した。
本当は、もし奇跡が起こるなら、6年前に戻って介護職を選ばないとか、戸田さんの優しさを勘違いしないとか、そんな風に思っていたけど、そんな事よりも、この小さな奇跡の方がずっとずっと大切に思えた。
久しぶりに幸せな気持ちで仕事を終えた私は、帰りに渡邊さんの息子さんのカフェに寄ってみる事にした。
「いらっしゃいませ」
渡邊さんの息子さんは、ちょっとだけ驚いたような、それでいてちょっとだけ嬉しそうな笑顔でそう言った。
他にお客さんがいなかったので、私はカウンター席で、渡邊さんの息子さんであるマスターが淹れた珈琲を飲みながら色んな話を聞いた。
元々はバリバリの証券マンだった事。仕事に熱中し過ぎて3年前に奥さんが離婚届を置いて出て行ってしまった事。一人暮らしの渡邊さんが要介護になった事で、この町に戻ってきて、このカフェを継いだ事。
そして驚いたことに、このレモンストリートの名付け親は、以前町内会長をしていた渡邊さんだったという事。
しかも果物のレモンではなく、渡邊さんが大好きなアメリカの俳優ジャック・レモンからきているのだと。
「親父が定年後に始めたこのカフェの『バクスター』っていう店名も、親父が1番好きな映画『アパートの鍵貸します』の、ジャック・レモンが演じた主人公の名前なんだ」
「へー!どんな映画なんだろう?」
私がそう言うと、奥からDVDを持って来てくれた。
「貸してあげますよ。親父がよくあなたのことを『お気に入りのお嬢さん』って言って、話してくれているので」
「え?」
「他の人達は年寄りを子供のように扱うけど、雨宮さんだけが、ちゃんと年配者として接してくれるって。雨宮さんがレモンストリートの近くに住んでいるなら、ぜひ一度あの映画を観てほしいなって」
もしかしたら、渡邊さんは全てをお見通しなのかもしれない。
DVDを見終わった時、そんな風に思った。
『私には、間違った場所で、間違った時に、間違った相手に恋する才能があるのね』
主人公バクスターが恋する相手のフランの台詞は、まさに私そのものだった。
そして、フランの不倫相手で、フランに「妻と離婚する」と約束しておきながら、陰では「ちょっと付き合っただけで離婚すると思われちゃたまらないよ」と笑うバクスターの上司の最低さ加減に、自分の愚かさを思い知らされた気分だった。
私にとっては気まずい内容だったので、気になりつつも、なかなかDVDを返しに行けずにいた。
そして気がつくと2週間、私はもう電柱の隙間を通らずに仕事に行っていた。
住む場所を変えたところで、万が一今とは違う世界線に行かれたところで、自分が変わらなければ何も変わらないのだという事に、私は気づいた。
たった1日の奇跡が、そう私に気づかせてくれたのだ。
私は毎日持ち歩いているDVDを、今日こそは返しに行こうと決め、西日の差しこむレモンストリートに足を踏み入れた瞬間、思い切り誰かとぶつかってしまい、その人が持っていたエコバックが落ち、レモンが一つ転がって私の足元で止まった。
「すみません」と言ってレモンを拾い上げると、目の前には、人なつっこく笑う『バクスター』のマスターの顔があった。
了
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