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晩年の父と母との物語【エッセイ】

 昨年の秋に七回忌を終えた両親のことを、今なら心静かに綴ることができそうだ。
 私の心をざわつかせていたのは、悲しみ以上に後悔だった。
 もっとできた筈…。
 あんなこと言わなければ良かった…。
 でも、七回忌を終えてやっと思える。
 あれが、あの時の私ができた、最善だったのだと。

認知症の父との物語 
「だけど、頑張って生きていかないと…」

 父はとても寡黙な人だった。
 でも、話しかけると必ず笑顔を返してくれる。
 そして年を重ねるごとに、その笑顔が愛らしくなっていった。

 だけど私が子供の頃はまだ、ちょっぴり怖さを纏っていた。
 その寡黙さの中に、昭和の男感が漂っていて、話しかけ辛かった。
 そして思春期の頃から30歳で結婚するまでは私が避けていたから、殆ど記憶にない。

 父の笑顔が、手放しでほころび始めたのは、私に娘が生まれてからだ。
 孫の威力とはスゴイもんだとつくづく思った。
 娘のおかげで、私と父の距離はグッと縮まった。

 そして、父との距離が人生で一番近くなったのは、父の認知症が発覚してからだった。

 父は、日頃から健康に気づかい、毎日必ず午前と午後2度も散歩をし、ずっとずっと心身共に健康だった。
 どちらかと言えば、病弱な母の方が常に気がかりだった。
 そんな母から、「最近お父さんの様子がおかしい」と電話で聞き始めた頃は、ただの物忘れ程度にしか感じなかった。
 なぜそのサインに気付いてあげなかったんだろうと、その後何度も悔やんだ。

 母からの何度目かのサインの後、1ヶ月も経たないうちにそれは起こった。
 図書館からの帰りに、家に帰れなくなっていたと、近くの市役所職員さんに連れられて帰宅。
 連絡をもらって1時間半の距離を大急ぎで実家に駆けつけた時には、地域のケアマネさんが既にいて、いろいろな説明をしてくれて、デイケアや病院の受診などを手配してくれた。

 父の認知症は、世間で一番多いアルツハイマー型認知症だった。
 でも、少し前の事を忘れてしまうだけで、生活は普通にできるし、家族のことも過去のことも忘れることはなかった。
 ただ、少し前の事を忘れてしまうため、日課である散歩をした事を忘れてしまい、とにかく散歩に出ては迷子になってしまうので、絶対に目が離せなかった。

 デイケアの方々と、私と兄の長女である姪と連携して、必ず誰かが見ているという介護が始まった。
 (兄は早々に両親の介護を完全放棄したので、両親の葬儀後は縁を切っている。)
 デイサービスやショートステイの時以外は、姪は旦那さんと3人の子供達と連携して、大変だったけど家で見守り、私はその頃1人暮らしで、私が家事をしている間にいなくなってしまうことが多発し、警察のお世話になることもあって、怒りたくないのに何度も怒鳴ったりしていたので、覚悟を決めて、車好きの父と一日中ドライブデートをすることにした。

 車好きの父は、車に乗っているとご機嫌だったし、渋滞でも文句ひとつ言わずに寝てしまったりするので、運転のストレスはあったけど、父に対してストレスを感じること、怒ることははなかったので、精神的には楽になった。
 本当に色々なところへ出かけた。
 ほぼペーパードライバーだった私にとっては試練だったし、両親を看取った後は廃車にしたくらい擦りまくったけど、車以外は傷つけることなく、父との水入らずの時間を楽しむことができた。

 父と2人で満開の桜も見に行った。

 鎌倉で人力車にも乗った。

 人力車に乗った時は、終始楽しそうにしていて、聞いたことのない子供の頃の話をしてくれた。
 大正時代の逗子駅前には、待合の人力車が止まっていて、1度は乗ってみたいと思っていたけど、親には言えなかったこと。
 だから、走る人力車を後ろから追いかけたりしていたと。

 父は3歳の頃に実母を亡くしていて、育ての母に遠慮して育った。
 だから隣の家のお母さんや兄弟がいる友達が羨ましくて、家に帰って押入れにこもって1人で泣くこともよくあったそうだ。
 それから青年期には第二次世界大戦があり、陸軍で中国に派遣された時は、とにかく一日中歩かされ、夜中に寝ながらフラフラで歩いていた事。
 ちょっと返事が遅れただけで上官に殴られて耳の鼓膜が破れた事。
 そして戦後の食糧難の時には、何度も遠くまで買い出しに行った事。
 自分のことを語りたがらない父の、そんな過去の話も、認知症になって2人きりの時間が増えたからこそ、聞くことができたんだと思う。

ショートステイ先での父のスケッチ

 ショートステイ先は、『スラムダンク』の聖地でもある、江ノ電の鎌倉高校前にあったので、そこも父との思い出の地だ。
 駅から見える夕陽がキレイで、天気が良ければ富士山も江ノ島も見えて、最高の景観だ。

江ノ電鎌倉高校前駅から見える夕陽

 ショートステイ先である『ぐっさんち』での連絡ノートも、ようやくちゃんと見られるようになった。
 自分が認知症であると理解していない父は、なぜ知らない家にいるのか理解できず、5分おきくらいに「家に帰る」を繰り返す。
 その様子が切なくて、今までまともに読むことが出来なかった。
 そんな父を、本当に根気強く見守ってくださった『ぐっさんち』の皆さんには、今でも心から感謝している。

 手厚いケアマネさんが、父に合うように探してくれた、立ち上げたばかりの『ぐっさんち』は、民家を利用した家にいるような感覚でいられるアットホームなところで、庭で家庭菜園をしたり、いろんなところへも連れて行って頂いた。

散歩好きの父にとっては雨の日は試練
野球観戦

 切ない記述も多かったけど、それはまるで遅れてやってきた少年の夏休みの絵日記のようで、微笑ましくもあった。

 父はぐっさんに戦争の話をした後、よく「人生は自分の考え、思ったようにはいかない。だけど、頑張って生きていかないと…」と、よく言っていたそうだ。

 寡黙だった父の、私にとっては宝物のエピソードだ。

ぐっさんの記述


 最終的には認知症が悪化して、精神科病棟へ入院したり、その後寝たきりになったけど、父はいつだって泣き言は言わずに、じっと我慢をしていた。
 子供の頃から我慢することが当たり前になっていたからなのかな…って思ったりした。

 そんな父に、「お父さんが一番楽しかった時って、いつ頃?」と、ドライブデートの時に聞いたことがある。
 父はちょっとの間考えて言った。
 「仕事も落ち着いて、子供たちも大きくなって、1人でボウリング行ったり、パチンコに行ったりしてた頃かな。自由で楽しかった」
 晩酌はビールの小瓶を2日にいっぺん。パチンコも1回1000円までと決めていた父の、ささやかな楽しみだった。

 そして、2016年11月3日。気持ち良く晴れ渡った文化の日。
 父は、私と娘が見守る中、静かに息を引き取った。
 正確には、ちょうどお昼時で、看護師さんの話だとまだ大丈夫とのことで、待合室でコンビニで買ったオニギリを食べ、先に戻った私だけはギリギリ間に合ったのだけど、娘は遅れをとった。
 でも、急に呼ばれた娘が口にオニギリを頬張ったまま駆けつけ、私が「たった今…」と言いかけた時、臨終を言い渡された父が、「はっ」と一瞬だけ口を開いた。
 まるで娘が間に合わなかった事を後悔しないように、最後の力を振り絞って挨拶してくれたみたいだった。
 驚いたけど、おかげで娘は後悔せずに済んだ。

 葬儀屋に連絡をし、霊柩車が到着し、私の車で自宅まで先導する時、「ご遺体を乗せていますので、できるだけゆっくりお願いします」と言われたのに、気が動転している私は、猛スピードで発進してしまった。
 そしてそれにも気づかない私を娘が制した時、ふと後部座席に気配を感じた。
 「ほら、じいじが心配して乗ってるよ」
 娘も同じように感じたらしく、そんな風に言った。

赤ん坊の私を抱く父


少女に戻った母との物語
「ごめんね…。ずっと謝ろうと思ってたの」

 母はとても愚痴の多い人だった。
 そんな母に、いつも気を遣って接していた。
 だから私は、専門学校を卒業した後すぐに家を出た。
 そして距離ができたら、私が父を嫌っていたのは、ずっと母から父の愚痴を聞かされたせいだとわかった。

 そんな母は、病気がちで何度も入退院を繰り返したが、晩年は意外と元気で、2人暮らしの父の事をいつも愚痴っていた。
 実家に戻った時も、父に対して文句ばかり言っているので、「父は母の文句が嫌でアルツハイマー型認知症になったのでは?」と勘ぐるほどだった。

 それでも良く言うと社交的で、外面が良いので、週一でデイサービスに行くように手配をしたら、とても明るくなった。
 たった週一でも、若い職員さんや、同じ年頃の人たちと会話するのは楽しいらしく、元々お洒落だったから、身だしなみを整えて出かけることも生活にハリが出たようだった。
 だから母の遺影は、お気に入りの若い男の職員さんがお誕生日に撮ってくれたものを使用して、母が好きだったパープルの着物で彩った。
 その写真以上の笑顔を、最近のアルバムからは見つけられなかったから。

我ながら良い出来な母の遺影

 私は子供の頃、母に3歳年上の兄とよく比較されていた。
 私は父に似てあまり喋らない子供だったから、いろいろな事が兄よりも後手になっただけで、兄と喧嘩しても謝るのが遅くなるだけなのに、先に謝る要領のいい兄を褒めて、「本当に女の子は強情っ張りね。その点男の子は素直で可愛いわ」と、これみよがしに私言うのだった。
 それが嫌で嫌で、私はずーっと「将来結婚しても絶対に男の子は産まない。女の子を産んで、女の子は可愛い可愛いって言って育てる」と心に誓っていて、実際にそうなった。

 それを後年、直接母に言ったらしいのだけど、すっかり忘れていたら、父の方に手がかかるからと、私が何件も見学に行って決めて入居した老人ホームで、気の合う友人も出来て楽しく過ごしている日々の中で、思いがけず母が謝ってくれたのだった。

 「ごめんね…。ずっと謝ろうと思ってたの。ずっとお兄ちゃんと比べられて辛かったって言われたこと、全然そんなつもりなかったんだけどね…。同じように接しているつもりだったのに、そう感じさせていたなら、本当に申し訳なかった」と…。

 すごくすごく嬉しかった。
 長年の心の澱のようなものがなくなって、気持ちがスッキリした。

 長年のわだかまりが消えるって、本当に幸せなことだ。
 だから、もし謝りたくて、でもずっと謝れていない人がいたら、ぜひ間に合う内に勇気を出されることをオススメする。

 母が私に謝ってくれたことで、私と母の間にあった、うっすらとした壁は取り払われた。
 たぶん覚えている限りの人生の中で、最も母と素直に話せた時間だ。

私が読者モデルで載った雑誌をよく見ていた

 だけど…。
 父に対しては間に合わなかった。

 父が亡くなった時は、母も入院中でだいぶ弱っていた。
 それでも、最後に一目会いたいだろうと思って、病院に頼んで外出許可をもらって、父の遺体と会わせた。
 ずっと会いたがっていなかったから、どうだろうと心配だったし、車で移動中ずっと文句を言ってたけど、母は父の姿を見るなり号泣した。

 「ごめんなさい…。ごめんなさい…。お父さん。お父さん。ごめんなさい」
 そして、
 「私も連れて行ってよ。私も一緒に連れて行ってよ〜…お父さん!お父さん」
 父の冷たく硬直した肩を、ずっと揺さぶって泣いていた。

 苦しかった。
 母の泣き声を聞いているのが、本当に辛かった。
 そんなに言うなら、あんなに文句ばっかり言い続けなきゃよかったのに…。
 そう思う気持ちを飲み込んだ。

 そして気力を失くした母は、それから3ヶ月後に亡くなった。

 認知症になった父とのデート中に、一度聞いたことがある。
 「お母さんにあんなに文句ばっかり言われて、別れようと思ったことないの?」と。
 そうしたら父は、
 「こんなオレと一緒になって、苦労かけた人だから」とだけ言っていた。

若き日の父と母


 終戦後、父が家に戻ったら、見知らぬおばさんがいたという。
 なんと!父の出征中に、祖父が3度目の結婚をしていたのだ。
 その人は、私の記憶に残っている唯一の祖母だ。
 その祖母は、かなり嫁いびりをしたらしい。
 祖母だけではなく近所に住む2人の姪も一緒になっていびってきて、母は一時期ちょっとしたシンデレラ状態だったようだ。
 「そんな時、お父さんは全然庇ってくれなかった」というのは、私も何度も聞かされたことだ。

 そして極めつけは、その祖母が新興宗教にハマって借金を作ってしまった事。
 祖父が責任を感じて祖母を連れて遠くに引越していったけど、借金の一部は残されて、両親は長い間、共働きで返済したのだった。
 そんな歴史があるから、母が父に文句が多いのも、父が母に頭が上がらないのも頷けはする。

 母は、父のことが好きだったのだ。
 あの文句も愚痴も、その裏返しだったり、母の甘えだったりしたんだってことが、私も今なら理解できる。
 生きている内には「ごめんなさい」って言葉、間に合わなかったけど、父にはちゃんと通じているって思う。

 そして母は、2017年2月21日、孫である私の娘に手を握られて、静かに眠るように逝った。
 娘は、父の時と同じことにならないよう、トイレも我慢して、ずっとずっと母の手を握り、私もずっと母の頭を撫でていた。
 幼い頃に父を亡くした母は、再婚先で母親の連れ子として苦労したそうで、親に甘えることができなかったとよく言っていたから、最後は私がずっと「イイコイイコ」したし、入院中、どんなに具合が悪くても、どんなに機嫌が悪くても、私の娘の手を握るといつも、「あったかい。気持ちいい」と笑顔にったから、大好きな孫に手を握られて安心出来たと思う。
 だから私も娘も、父の時よりも、心残りなく看取れて、悲しいけど、どこか満足感があった。

 そのせいか、父の時は私たちを心配して、車の後部座席に乗ってくれた気がしたけど、母は、あっという間にどこかへ飛んで行っちゃった気がした。
 母が急激に弱ったのは、歩けなくなった時からで、病院で車椅子に乗せられた時、「歩けなくないちゃった…」
 と、子供のように泣いた姿が、今でも目に焼き付いているし、杖なしでは歩けなくなった頃も、「街で元気に歩いている人や走っている人を見ると、本当に羨ましい」と、よく言っていた。
 少女の頃の母はお転婆で、走るのも好きだったし、木登りでもなんでも、男の子と同じように出来たそうだ。
 だから母は、使えなくなった肉体から解放されて、笑顔でどっかに飛んで行っちゃったんだねぇと、娘と泣き笑いしたのだった。

赤ん坊の私を抱く母


晩年の父と母との物語
 〜誰もが辿る道〜

 こんな風に、晩年の父と母との物語は、それぞれに違う。
 でも、全く同じで最も切なかったことが一つある。
 それは、施設に入居する際に、持ち物全てに父と母の名前を書くこと。
 しかもそれは、パッと見てすぐにわかるように、大きめなカタカナで書く。
 タオルや下着に、油性マジックで両親の名前を書きながら、私が幼い頃は、幼稚園や小学校の持ち物に、こうやって両親が書いてくれたんだよな〜と、感慨深く思った。

 ランドセルや名札の文字は、達筆な父だった。
 私の娘のランドセルに書かれているのも、父の字だ。
 洋裁が得意だった母の作った幼稚園バックや上履き入れには、丁寧な母の刺繍の私の名前があった。
 親だったのに…。
 親だったのになぁ…。
 下手な字でごめんね…と、心の中で謝りながら、親の名前を書く。
 どうしようもなく切ない時間だった。

 老いは誰にも訪れるもの。
 いつか私も、娘に、自分の下着に名前を書かれる日がくるだろう。
 私が持ち物に名前を書いて育てた娘に。
 そしてその時に、老いた両親の思いが、本当の意味でわかるのだろう。
 いつの日か、親の気持ちを実感として理解できる日がくるのは、幸せなことなんだと思う。

 生まれては亡くなって、繋がれてゆく命は、やっぱり尊いなぁと思う。
 親からの最後の子供への教育は、親の老いを受け止め、看取ること。
 ちゃんと学ばせてもらいました。

 認知症の父は、私とのドライブデートの思い出は、全部忘れてしまった。
 あんなに喜んでいた人力車に乗ったことも、すぐに忘れてしまった。
 でも、後で読んだお医者さんの認知症の本に、『出来事は忘れてしまっても、楽しかった感情は残っている』と書かれていて、すごく癒された。

 愚痴や文句の多かった母は、最後にその全てを払拭して、素直な少女に戻って逝った。
 可愛い可愛い死に顔だった。
 私もあんな顔で死ねるように、大切な人たちには、最後にちゃんと懺悔しよう。

 私はこの父と母の元に生まれてきて、本当に幸せだ。
 私も、娘にそう思ってもらえるように、今はまだ、頑張って生きていかないと!

                             了

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