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キャリコン的『ゴジラ−1.0』論

お疲れまです、ゴジラ大好きゴジラ系キャリコンのタケシマです!

楽しみにしていた『ゴジラ-1.0』を見てきたので感想です。今回の記事は(1)ネタバレなしのキャリコン視点レビューと、(2)ネタバレありのゴジラファン向けレビューに分かれます。

(1)キャリコン視点レビュー


終戦直後が舞台。本作では主人公である敷島(神木隆之介)の苦悩が描かれます。彼は嘘をつき戦争を生き延び、さらにゴジラから逃げることで仲間を死なせてしまった過去があります。その過去に囚われてしまい日本は急速に復興しますが彼の中で戦争は終わっていません。そのため家族を作る勇気も出ず今自分は果たして生きているのか、あるいはすでに死んでしまっているのか悪夢の中にいます。
しかしながらゴジラとの対決の中で彼にとっての戦争を終結させるのです。
我々も人生の中で過去にとらわれることはよくあると思います。しかし何かを終わらせることをしなければ何も始まらないのですね。心理学者のブリッジズという人は、人生の転機(トランジション)のプロセスを、トランジションのプロセスを

「終焉(何かが終わるとき)」→「中立圏(ニュートラル・ゾーン)」→「開始(何かが始まるとき)」

の3つの段階に分けて考えました。議論の端緒が終焉から?と違和感を感じる方もいるかもしれませんが、過去含め何かを終わらせることでしか、次に進めないことはあると思います。
『ゴジラ−1.0』の主人公は、終わらせることができなかったために次に進めなかったのです。しかしながらゴジラとの戦いによって彼の人生の転機が転がり始める。
本作は、彼の苦悩とゴジラの出現、そして日本の戦後がうまく交差しながら物語が進んでいくとても素晴らしい映画でした。

(2)ネタバレありのゴジラファン向けレビュー(長文)
*私の投稿しているFilmarksレビューからの転載です

山崎貴監督の『アルキメデスの大戦』が想定外の傑作であった。このゴジラは監督にとって『アルキメデス』の続編のような位置付けだろう。

さて、本作『ゴジラ-1.0』はとても良い映画だった。去年東宝ゴジラ全29作を見直してみて、『シン・ゴジラ』を除くとやはり初代を超えるものはなかったのだが本作はどうか。ゴジラ映画を評価する時は普通の映画と違ってVFXの迫力、映画としてのドラマ性や演出、俳優陣の頑張り、設定のリアルっぽさ、戦争についてのメッセージ性、政治性など複眼的にみる必要がある。本作『ゴジラ-1.0』は全てにおいてバランスが良い作品だった。

まずVFXの迫力は『アルキメデスの大戦』でも山崎貴が見せた、重量感のある軍艦描写が素晴らしい。で、主役のゴジラについてもデザインはシンゴジラ+ハリウッド的な感じで巨大さ、恐怖感、神話的な威厳など見事に造形されていたと思う。小型船を追いかける場面も良い。惜しむらくは設定上したかないが登場シーンのとき小ぶりのゴジラだったので爬虫類っぽくてどうしても迫力が削がれる。初代の登場シーンの怖さには及ばなかったか、、これはシンゴジラのように違う造形の幼体から登場させても良かったかもしれない。

人間ドラマ部分は歴代のゴジラ映画の中では素晴らしいものだった。同胞を死なせてしまい、自分も死にきれない敷島(神木隆之介)の苦悩、整備士橘(青木崇高)との関係、太田のおばちゃんを演じた安藤サクラの存在感、3歳くらいの子役の子の泣き演技、典子(浜辺美波)の歴代東宝ヒロインにも対抗しうる美形など俳優陣は頑張っていたと思う。野田(吉岡秀隆)のいつもの顔芸はちょっとアレだったけどw
初代ゴジラは本多猪四郎がジャンルは違えども成瀬映画をかなり意識していたように思う。成瀬組の撮影玉井正夫、美術中古智、照明石井長四郎が『ゴジラ』に参加しているのだ。
本多も成瀬も戦後を描いている。二人の偉大な監督にとって戦後はそう簡単に終わらなかった。簡単に終わらせることは無責任である。人々は忘れかけていても二人は執拗に戦後を描いた。
今回の『ゴジラ-1.0』でも戦後をそう簡単に終わらせまいとする山崎監督のキャラ造形は、敷島(神木隆之介)に託された。敷島は自分の中で戦争は終わっていないことに苦悩する。人間ドラマ部分では成瀬映画を意識していたのではないか、そういう意味でも本作は初代へのオマージュである。

メッセージ部分では、終戦直後日本の武装解除について本作は正面から描き切っている。
初代では冒頭一発目のテロップで、東宝ロゴよりも前に”協力海上保安庁”と出るのだがこれは、非武装の海上保安庁の存在は自衛隊が編成される前なので戦後の非武装を象徴するかのようである。ゴジラを倒すオキシジェン・デストロイヤーも民間技術の転用である軍備ではないのである。
一方で2作目では民間機が活躍するものの、防衛隊という名前で日本はすでに武装されている。民間機についても特攻して自爆する戦時中を思わせる場面もある。ゴジラ映画は2作目で早くも武装解除、再軍備問題について深く考えずに防衛隊を登場させてしまったのだ。もちろんその後はゴジラ映画において自衛隊が登場するのは当たり前になる、それは日本の戦後武装化を象徴する。

ハリウッドゴジラでもなんでも怪獣映画において国軍の存在は重要で、多くの場合怪獣にやられることが多いけどもなんといっても市民を守るのは一義的には国軍なのである。以前『グエルム』レビューでも書いたが、韓国で怪獣映画が今ひとつ作られない理由の一つに、僕の仮説だが軍が市民の側に立つ構図に拒否反応があるからではないかと思う。軍が市民を弾圧した80年の光州事件の記憶はいまだに消え去っていないであろう。一方でゾンビ映画が韓国で多いのはパルチザンが市民の側というイメージもあり、ゾンビくらいだとパルチザンでも対抗できるが流石にゴジラ級の怪獣にパルチザンで対抗というのは無理がある。

ミレニアム最後の作品2004年の『FINAL WARS』では日本人初の国連事務総長が登場する。ここにおいて日本が国連に加盟することで完全に敗戦国スキームが終焉したのである。しかしながら1955年の2作目の戦後再軍備から2004年『FINAL WARS』での敗戦国スキームの終了は安易すぎないか??庵野『シン・ゴジラ』では日米安全保障のスキームを前面に出す事で戦後のリアルな日本の立ち位置を提示することに成功している、しかし軍備そのものへの考察はなかった。
『ゴジラ-1.0』では時代背景を終戦直後に持ってきたことで警察予備隊(自衛隊)、民間、米軍、ソ連についてきちんと概念整理した上で再軍備の欺瞞について正面から描いていると思う。これは2作目から『FINAL WARS』までの再軍備問題の棚上げへの山崎監督なりの回答では無いだろうか。

『ゴジラ-1.0』では米軍はソ連を刺激しないため軍事協力を拒む。これはロシアのウクライナ侵略に対し、直接的戦闘に参加できないNATO諸国の対応を見たばかりの我々には妙にリアリティを持って迫ってくる設定だ。
劇中の挿入されるマッカーサーの映像も映画内の描写として上手く溶け込んでいた。
ではどうやってゴジラを倒すのか、、、日本は武装解除されており兵器はないためフロンガスでゴジラを深海に沈める作戦だ。元海軍の将校が”民間人”を集めるが死にたくないという声が続出する場面もあり日本再軍備問題について意識した作りになっていると思う。

民間技術でゴジラに対抗する、ここまでは初代の展開と同様である、しかしながら最後には『ゴジラ-1.0』では特攻的作戦で解決をする。そもそもフロンガスの作戦名は”わだつみ”作戦であり、いうまでもなく学徒兵の遺稿集である「きけ、わだつみの声」からきている。

この特攻描写は賛否両論だろうと思う、自分も本作の中で違和感を感じた部分だが2作目で小林(千秋稔)が見せた特攻とは異なり敷島(神木隆之介)は生還する。この生還は特攻へのアンチテーゼとも言える。
『アルキメデスの大戦』で印象的なシーンがあった、アメリカ軍の戦闘機が日本の戦艦の目の前で墜落し、パイロットがすぐに遊軍機によって救助されるのを呆然とみる日本兵たち。アメリカ軍のロジスティックの完璧さと日本軍の人命軽視を見事に表す場面だった。

そう、本作は”生きのびる”ことについての映画なのだ。敷島(神木隆之介)は特攻から逃げた死に損ないだが、彼が死ぬ事で戦争が終わるわけではない、むしろ生き抜くことで彼にとっての戦争は終わるのである。『アルキメデスの大戦』では大和という象徴をあえて殺すことで戦争を終わらせた山崎貴監督は、『ゴジラ-1.0』は生きのびることで戦争を終わらせたのだと思う










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