呪うにも作法を

親から叩き込まれる呪い

他者からの何気無い呪い

因習という呪い


呪いと言えば藁人形を想像してしまう年齢なのですが、

現代の誹謗中傷を古き良き呪いの方法に例えるなら

スマホが藁人形で、指が五寸釘だろうか・・・と想像しては、

こっわーと肝を冷やしています。

(藁人形の呪いが分からない方は調べてください)


かくいう私も、インスタントに人を批判して呪いをかけてしまうような人間だったので、反省しています。


例えば芸能人や政治家の発言、主にメディアに対してで。

(あくまで個人であーだこーだ言っているだけで、わざわざSNSに書き込んだり等はしていません、そこまでの情熱は無い)

すれ違った人でも気になる事があればあとからあーだこーだ言ったりしていました。

とりあえず目に入るものに指摘をしていく。

もはや主張があるから批判しているのではなく、何かに突っかかりたいから批判しているという当たり屋のような行為。

そんな些細な批判の癖が積み重なってくると、どうにも自分が苦しくなってきて・・・

何故だろう?と色々考えていたら、きっとそれは優越感と共に劣等感も育ってしまっているからだろうなと思ったのです。

優越感に浸りたい、自分の考えを主張したいという欲望があるから批判をする。

人の事が気になってしまうのも、自分とのズレを感じているからで、ズレを尊敬出来るなら褒めるでしょうし、気に入らなかったら批判するでしょうし。

圧倒的に批判の方が多かったですが。

それも苦しくなる要因なんだろうなぁと。



藁人形が古き良き呪いの方法であるとしたなら、

私の学んだ(教えてもらったわけではないですが)親のドロドロとした呪いは、とても下品なものでした。

満足するという事がなく常に気に食わないことを見つけては批判する親で

互いの批判、子供の批判が好きな親だったなぁ。

その言葉によって私は呪われるし、人を呪うのも容易くなるんだなぁと痛感しています。

呪いのループが見事に出来てしまっている。

癖になってしまっている。


親を呪うという行為も強烈に自分を呪う行為だなと今となっては思います。

とてつもなく無駄な時間だったなと(無駄だと思えるようになったことは嬉しい)


そもそも誰かを批判する、なんてもっとおおごとなのですが

インスタントに実行できる。

手っ取り早く優越感を感じる事ができる。

恐ろしいです。


人のことを気にしたり、批判したり、呪うような行為は自分の首を締めるなぁと気付いてから、人のことをあまり気にしなくなり無闇矢鱈に比較することも無くなりました。


なんだかスッキリ。

今まで人を批判してるようでいて、自分を呪っていたんだなぁと。


今度人を呪うとしたら、古き良き藁人形に五寸釘で白装束を着て丑三つ時に誰にも見付けられないように用心して木に打ち付ける、そんなくらいの覚悟を持ってしようと思います。

多分、そんなことに時間を使うことがバカバカしいのでやらないと思いますけど。


安易に人を批判していると、自分の呪いが増えていくよ、という話でした。

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