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エメラルドの洞窟

『海の日を待って、それでもその絶望が氷解していないというなら、エメラルドの洞窟にお連れいたしましょう。そうすれば安らかに眠ることができますから』

 夏の青い葉が、陽光にきらきらと輝くのを見て、ふと玲子の脳裏に幼少期の記憶が蘇りました。

 それは、まだ小学生だった玲子が薄着のまま雪の中を彷徨っていた時のことです。幼心に絶望を抱えていた彼女は、冷たい白銀の風に身を任せて、自らの生命すら凍らせてしまおうと本気で考えていました。家にはもう帰らないという決心で、真っ白な吹雪の中を一心不乱に歩き続けていました。
 しかし、ふっと吹雪が止んだ時、目の前に不気味な存在が立っているのに気がついて、玲子はちいさな手で口を覆って驚きました。一見、燕尾服を着た紳士のように思われたのですが、襟の上にあるのは人間ではなく、鷲の頭部だったのです。

「お嬢さん、こんな吹雪の夜にどうされましたかな?」
 ごぅっと地響きのような低い声で、鷲頭は言いました。しかしその声色は優しく、玲子は驚きこそすれ怖くはありませんでした。
「れいこね、もういなくなっちゃいたいの」
「おや」
 鷲頭は紳士然とした上品な動作で自分の右手を左胸に当てて、玲子と視線を合わせるように屈むと、
「お若いというのに、随分と悲しいことを仰るではありませんか」
 と静かに言いました。
「話を聞きましょう。こんな身なりですが、私も人間だったことがありますから何か助けになるかもしれません」

 玲子は鷲頭のことをすっかり信用して、正直に全て打ち明けました。鷲頭は真剣な眼差しで話を聞き終えると、こう言ったのです。
「それは貴方のちいさな身にとって、大変お辛いでしょう。しかし、早まってはいけません。夏まで生きてご覧なさい。そうですね、海の日までは生きてみるというのはいかがかな? 海の日を待って、それでもなお、その絶望が氷解していないというなら、エメラルドの洞窟にお連れいたしましょう。そうすれば安らかに眠ることができますから」
「こうして吹雪の中を歩いているのでは駄目なの?」
「ええ」と鷲頭は頷きます。
「どんなに優しく見える方法でも、自ら命を絶つのには相当の苦痛を伴います。貴方にはそんな思いをして欲しくありません」
「エメラルドの洞窟なら、苦痛じゃない?」
「もちろん。翠緑のさざ波が、眠るように魂を誘ってくれます」
 玲子はちょっと迷いましたが、
「分かった。れいこ、お家に帰るね」
 鷲頭に背を向けて帰ることにしました。あれだけの距離を歩いたはずなのに、すぐ家の近くに立っていたのが不思議です。

 それからというもの、玲子はエメラルドの洞窟で眠るために必死で生きました。
 子どもの成長は逞しいものです。海の日を迎える頃には半年前の悩みがすっかり消えてなくなっていました。
『鷲頭さん、今年の海の日はまだ大丈夫だよ』
 そう心の中で呟くと、鷲頭が頷くのが見える気がします。
 やがて、恋を知り、愛を知り、次第に大人になるにつれて鷲頭のことを思い出す頻度は減っていきました。

『今頃どうしているのかしら』
 玲子は皺で飾られた自分の手をそっと見つめました。
 すうーっと翠色の影が庭へ落ちたのが視界の端に入って顔を上げると、遠く青空に鷲が飛んでゆくのが見えます。
 玲子は子供の頃のように無垢に微笑みました。
 そしてさざ波に誘われるように、微睡んでゆきました。

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