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【SSW21:STORY】誰かの希望になりたくて・小野亜里沙

ピアノ弾き語りシンガーソングライター、小野亜里沙(おの・ありさ)。2010年から本格的な音楽活動を始めた彼女は、フリーランスとして路上やライブハウスで実績を重ね、アミューズメントパークやTVなどへの出演を経験し、18年10月18日には赤坂BLITZでの単独公演を成功させた。さらにコロナ禍をも乗り越え、音楽への愛を再認識した彼女が思い描く未来とは。


誰かを救うための手段として、音楽を選んだ

福岡県生まれ、千葉県育ちの小野は、物心ついたころから作曲をしていた。

「曲を作るのが好きとかではなく、自然に出来てしまうんです。心の中にいっぱい浮かんじゃうので、形にしないと苦しくて。毎日、息をするようにピアノを弾いていました」。

家でも、学校でも、人を喜ばせることが好きな子どもだった。

「家族でドライブをしているときにおどけたり、歌ったり、合唱の授業のときにピアノの伴奏者をしたり。自分から前に出ていくタイプではありませんでしたが、周りのみんなが喜んでくれることが嬉しかったので、何でもやりました」。

中学校からはテニス部に所属し、楽しく過ごしていた。

本格的に音楽をやろうと決めたのは、17歳のころだ。

「色んな辛いことが重なって、落ち込んだときに、たまたま川嶋あいさんの音楽を聴いたんです。とても励まされて、『こんなことある?』ってくらい元気になりました」。

自分も、同じように落ち込んでいる誰かに希望を与えたい、と思った。

「まさに天からメッセージが降りてきた感じで、ハッとしました。今でも忘れられません」。

すぐにライブの予定を組み、SNSのアカウントを作り、シンガーソングライターとして活動を開始。歌もピアノも独学で、試行錯誤を繰り返した。

大手芸能事務所に所属した時期もある。

「私がお世話になったのは、女優さんが多く所属している事務所でした。色んな人と関わって、オーディションを受けたり、たくさん勉強させてもらったおかげで、自分のやりたいことが明確になりました」。

その後も業界関係者や事務所から声をかけられたことはあるが、フリーランスの立場を貫いた。

「私は本当に、私の歌を気に入ってくださるお客さんを見つけたかったんです。売れたいとか、目立ちたいとか、そういう欲はほとんどなくて。ただ誰かの心を、少しでも動かせたらいいなって。長い目で見て、歌一本で活動をしてきました」。

2010年には「約半年で100回路上ライブする」と公言し、達成。「バイトが終わったら新宿駅へ行って、西口で歌うっていうのを繰り返しました。フライヤーも手書きで、CDも完全に手作りで、約1000枚をお届けしました」。

11年6月26日には、渋谷gee-ge.にて初のワンマンライブを敢行。さらに日本テレビで放送されていた音楽番組『TOKYOヒットガール』へ出演したり、全国発売の雑誌『週刊ゴルフダイジェスト』でモデルを務めたりと、活躍の場を広げていった。

「曲を作って、練習して、路上ライブをして、ライブハウスさんで歌わせてもらって。コツコツと土台を作っていきました」。

気がつけば、音楽専業で生計を立てられるようになっていた。

「活動を始めた当初は、3つくらいバイトをかけもちしていたんです。パン屋さんとか、居酒屋さんとか。でも、とあるバイト先から『店長にならない?』と誘われたことをきっかけに、全部辞めました」。

音楽で生きていきたいのに、そうではない現実が悔しかった。

「一人暮らしの家賃や生活費もあったけど、退路を断っちゃったんです。バカですよね。でも、そうしたら逆に、音楽のお仕事が増えて、食べていけるようになりました」。

14年秋には、日本三大テーマパークの一つ・ハウステンボスの音楽祭に、公式ミュージシャンとして参加した。

「アーティスト仲間と一緒に路上ライブをしていたとき、たまたま、ハウステンボスの関係者の方が通りかかったんです。フライヤーをお渡ししたら、後からご連絡をいただいて、お仕事に繋がりました。ありがたいご縁でした」。

10月21日から12月1日にかけて、毎日のように、敷地内で公演を行った。

「日本一広いテーマパークで、楽しむためにいらっしゃっているお客様を相手に、ミューズホールやお城のステージなどで歌わせていただいたことは、貴重な経験になりました。言葉が通じない外国の方にも、ピアノや歌でこんなに伝わるんだって、感動しました」。

来場者が少ないときにも、楽しみがあった。

「やっぱり平日、それも雨だとお客さんが少ないのですが、代わりに鳥や動物が集まってくるんです。『こんな平和はないぞ』って思いながら歌っていました」。

この時期から、音楽に対する意識が変わったと語る。

「初めてしっかりお給料をいただいて、約2ヶ月間、たくさん歌いました。その場で初めて私を知った方が、CDを買って行ってくれるのは、私の歌に価値を感じてくださったからだと思うことができました。それまで『私はまだ見習いだ、まだまだこれからだ』と思っていましたが、やっと『私はプロとして歌っている』と思えるようになりました」。

一歩ずつ、着実に大きな舞台へ

2015年10月には吉祥寺Star Pine's Cafe、16年10月にはduo MUSIC EXCHANGEでバースデーワンマンライブを開催。それぞれ着席でのキャパシティ上限である150人と300人、過去最高の動員数に挑戦した。

「自分が叶えたいことを本気で叶えるために、毎年一つ大きいコンサートを決めて、そこに向けて日々を積み重ねるというルーティンができました」。

17年はヤマハホールを会場に選び、弾き語りコンサートのチケットを完売。

「昔から、ピアノの発表会のような場に対する憧れがありました。『ホールの舞台で、ピアノと一対一で向き合いたい』っていう、子どものころから頭に描いていたイメージを、やっと実現できました」。

18年にはヘアケアブランド・LUXのテレビCMに出演。後ろ向きでピアノを弾く特技を披露した。彼女にとっては、努力して身に着けた技ではなく、幼稚園のときから自然に行っていた遊びの一つだ。

「私、肩こりがひどいので、後ろ向きでピアノを弾く姿勢が楽なんです。あと、横着者だから、『こうすればテレビを見ながらピアノも弾けて最高!』みたいな。自分では凄いことだと思ってなかったんですけど、小学生のころ、何げなく友達と喋りながら弾いてたら『何それ?』って言われて、隣のクラスの人も集まってきたりしましたね」。

さらに同年10月18日、赤坂BLITZにて単独公演を開催した。

公演のきっかけとなったのは、16年のduo MUSIC EXCHANGEでのライブ中に、「30歳までに赤坂BLITZでライブをする」と公言したことだ。

「あれは本当に思い付きでした。duoで歌ってたら、ふっと言葉が降りてきて、MCで言っちゃって、自分でも『やばっ』って。予約することさえ大変な会場なのに、よく実現できたなぁと思います。ご縁に恵まれました」。

演出を含めて何もかもが未知数の規模だったが、総勢50名にも及ぶ仲間の支えを得て、公演は大成功をおさめた。

「大変な背伸びをしました。私ひとりじゃ絶対に無理でした。多くの方の力を借りて、チームとして素晴らしいお仕事をしてもらって、ファンの皆さんの温かさがあって、叶えられた一日でした」。

他にも初のバスツアー開催、栄ミナミ音楽祭への出演、SHOWROOMなどの配信サービスを利用し始めるなど、アーティストとして大きく飛躍した年となった。

コロナ禍を超えて、愛に気づいて

2019年は、ラジオや講演会などを含めて、約159本のイベントに出演。そのうち18本が単独ライブだった。

10月には「歌をシンプルに伝えたい」という思いのもと、渋谷セルリアンタワー東急ホテル内のJZ Brat SOUND OF TOKYOにて、昼夜2公演の単独コンサートを開催。

「JZ Bratさんは食べ物もお酒も美味しくて、視覚的にも癒されます。『音楽だけじゃなくて、総合的に非日常を味わってほしい』と思って、企画しました」。

20年2月には、ファンクラブを開設した。

「私のスタンスとして、誰でも気軽に入ってきてほしいので、内輪っぽい空気はあんまり作りたくなかったんです。 ファンクラブというものには少し抵抗があったのですが、たまたま開設の話が立ち上がったので、なんとなく始めてみました」。

直後、コロナ禍に突入。思う様にライブ活動をできなくなるなかで、ファンクラブは、貴重な居場所となった。

「あの寂しい、誰にも会えない日々で、ファンのみんなとオンラインで繋がれたことは大きな喜びでした。タイミングがよかったと思います」。

しかし、それからの2年間は、試練の連続だった。

「自粛要請や規制で思う様に動けないし、『ライブに来られなくなっちゃった人や、配信が苦手な人に、どうやったら平等に伝わるかな?』とも悩みました。誰でも無料で聞ける『オーノナイトニッポン』っていう配信番組を始めてみたり、色んな取組みをしました」。

懇意にしているライブハウスの危機も、見過ごせなかった。

「私はフリーランスなので、事務所に所属している方々と比べたら、比較的自由です。ギタリストの高田慶二さんと配信ライブを企画したり、可能な限り、ライブハウスさんに協力させていただきました」。

急激な環境の変化は、彼女自身をも蝕んだ。

「あるときから、声が出なくなったんです。がんばりすぎちゃったのかな」。症状はなかなか改善せず、22年秋ごろまで続いた。

「今までの人生、たくさん病気をしてきました。うつ病を患って克服したりもしましたが、まさか、歌えなくなるとは思いませんでした。こんなに辛かったことは初めてです」。

苦しみのなかで、得たものがある。

「ボイストレーニングに通ったり、筋肉を和らげる方法を試したりしているうちに、自分を癒すことができました。心理学を学んで、メンタルカウンセラーの資格をとったりもしました。『私は、誰かを幸せにしたくて活動してきたけど、自分を幸せにできてなかったな』と気づくことができました」。

自分と向き合いながら、アーティストとして立ち止まることはなかった。

「出ないなりの声でどう歌うかを考えたり、ピアノで思いを伝えたり、ラジオでの喋り方を工夫したり。表現の幅が広がったと思います」。

病状が好転し、完治に向かった要因は、心の持ちようが変わったことだ。

「『自分を良く見せようとする必要はないんだな。このままでいいんだな』と思えたんです。『たとえライブ中に声が出なくなっても、音程が外れても、ファンの人は離れない』って信じられたとき、ふっと、声が出るようになりました」。

むしろ、病気をする前よりも、良い声になったという。

「やっぱり、心って大事だなって。私はずっと『心』をテーマに音楽活動をしてきましたが、これからは、自分が書いてきた曲を、もっと確信的に歌えます」。

さらに、この経験は、彼女自身の音楽に対する認識を改めた。

「実は昔から、『私は音楽が好きじゃないのかもしれない』って思っていたんです。歌には、苦手意識さえありました。ずっと、『歌うことが好きで活動しています』ってアーティストさんが羨ましかったです」。

彼女の根幹にあったのは「誰かを喜ばせたい」という気持ちだった。歌や音楽は、もちろん嫌いではないが、目的を達成するための手段にすぎなかった。

「なんだか分からないけど曲が産まれるから、歌ったらみんなが笑顔になってくれるから、音楽活動をしてきただけなんです」。

もし、それが料理なら、料理家を目指したかもしれない。手芸だったら、手芸店を開いていたかもしれない。最も身近な手段として音楽を選んだだけで、音楽そのものへの執着を感じられないまま、活動を続けていた。

「今回、声が出なくなって、『もう私には何もない』と思いました。声が出るようになるまで、色んなことをやりました。それって、やっぱり、好きだからなんですよね。『ああ、私は歌が、音楽が好きなんだな。好きだからこそ、辛かったんだな』って気づきました。もう、歌に対するラブソングができそうです」と微笑む。

たしかに、彼女が語る音楽との関係は、少女漫画のようだ。例えるなら「条件が合うという理由だけで契約結婚をして、ビジネスパートナーとして付き合っていた相手だが、実は本当に好意があることに気づいて、正式に両想いになった」というところか。

一つのハッピーエンドへ辿り着いた彼女に、5年後、10年後の展望を聞いてみた。「以前なら『音楽活動には区切りをつけて、結婚して、旦那さんや子どもとゆっくり暮らしていたい』と答えていたと思います。でも今年、またJZ Bratさんでバースデーライブをさせてもらって、『私はずっと歌っていくんだな』と受け入れました」。

たとえ、結婚や出産など、ライフスタイルの変化があっても、歌い続けたいと考えている。

「本当に、こんな年齢まで音楽をやると思っていませんでした。音楽活動を始めたときは『25歳で辞める』と思ってたし、その後も『30歳で辞める』と思ってて。だからこそ、『30歳までにBLITZでやる』って公言した一面もあったんです」。

何故、辞めることが念頭にあったのだろうか?

「私は、人生で一番辛かった時期に音楽を始めました。だから、自分が幸せになったら、辞めると思っていたんです。自分の人気が落ちていくのを実感するのは寂しいから、絶頂期で辞めたいっていうのもあるし。でも、違いましたね。今はもう幸せになっちゃってるけど、音楽をやっています。きっと、これからも続けていくんだろうなぁ」。

編者が考えるに、彼女が理想としたのは、アイドルとして絶頂期にステージを去った山口百恵のような、美しい引退だったのだろう。しかし現在は、松田聖子のように、いつまでも歌い続ける未来を思い描いているのだ。

22年10月末現在、小野はまだ、1年後のバースデーライブの会場を決めていない。「まったくの白紙っていう状態は、この10年で初めてかもしれません。ずっと、1年後のスケジュールを決めるっていうルーティンでやってきましたから」。

だが、これでいいと考えている。

「私と歌のラブラブ度合いは、どんどん増していくわけですから、それに合わせた会場を見つけたいですね。どこがベストなのか、今の私の中には答えがありません。敢えて、探しません。これから見つけたいんです」。

そう話す彼女は幸せそうで、編者はつい「初めての新居探しですね」と呟いた。これまでは、小野が一人で家を決めて、ビジネスパートナーである歌を引っぱっていた。しかし次は、愛し合うふたりによる初めての共同作業として、新たな家探しが行われるわけだ。

彼女は笑いながら「そうそう、そういうことです」と答えてくれた。

「もう、未来に希望しかありません。上手くいくことしか思い浮かばないなんて、初めてです。私はもっともっと幸せになりたいし、なります。今、周りにいてくださる皆さんや、これから出会う方々と一緒に」。

約12年間、やきもきする恋愛模様を連載してきた少女漫画は、見事なハッピーエンドを迎えた。物語はこれから、結ばれたふたりのその後を描く第二章へ突入する。いったいどんな展開を見せてくれるのか、楽しみだ。

text:momiji 

Information

2021.4.3 release 『ありがとうは奇跡の言葉』他、CDおよびグッズは、ライブ会場またはWEB SHOPにて好評販売中!

2022.12.3(Sat) Open 11:40 Start 12:00
あり子の新しいお部屋が決定!!
2カ月に一度のゆるっと単独公演
「あり子の衣装部屋」

[会場] 東京音実劇場(東京都世田谷区玉川2-26-3 N2ビル地下2階
[料金] 前売 ¥3,500 / 当日 ¥3,800 / 配信 ¥2,500
[出演] 小野亜里沙 [サポート] ギタリスト 高田慶ニ

2022.12.31(Sat) Open 19:30 Start 20:00
小野亜里沙単独公演初カウントダウンライブ
〜ライブxオーノナイトニッポン?!〜

[会場] GRAPES KITASANDO(東京都渋谷区千駄ケ谷4-3-11
[料金] 前売 ¥4,000 / 当日¥4,500 ※1ドリンク&年越しそば別¥1,500
[出演] 小野亜里沙 [ゲスト] 森崎舞華 [サポート] ギタリスト 高田慶ニ

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