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【SSW12:STORY】息をするように唄い続ける・藍風くじら

ピアノ弾き語りシンガーソングライターの藍風(あいかぜ)くじらは、幼いころから歌うことが好きだったが、その思いを封印していた。呪縛から抜け出して音楽活動を開始し、同じく諦めていた結婚を叶え、「いつまでも唄い続けたい」と語る彼女の半生を追った。

抑え込もうとして、抑えきれなかった感情

藍風くじらは、歌うことが好きで好きでしょうがない子どもだった。

「特に、NHKの『みんなのうた』が大好きでした。演歌、昭和歌謡、フォーク……幅広いジャンルの曲を、片っ端から唄っていました」。

今も心に残っている楽曲のひとつが、尾崎亜美の『キャンディの夢』だ。

「メロディや歌詞はもちろん、不治の病に冒された恋人に語りかけるような、死に抗うようなストーリーに惹かれていました。昔から、ちょっと暗い雰囲気の歌が好きだったんです」。

しかし当時は「歌手になりたい」とは考えていなかった。いや、正確には「歌手になりたいと考えないようにしていた」と言う。

「私は、常に大人の顔色をうかがって生きている子どもでした。気持ち悪いくらい聞き分けが良くて、反抗期もありませんでした」。

藍風の両親は、趣味としての音楽や、鑑賞することには理解があった。しかし、あくまで自分たちとは縁のない、遠い世界のこと。芸能界への就職など現実的ではなく、働いても幸せになれないだろうという考えを持っていた。

「親を見ていて、『芸能界はアウトなんだな』って察してたんです。自分が『歌手になりたい』と言って反対されたわけでもないのに、はなから諦めて、『そっちの道には行かないようにしよう』と決めていました」。

幼いころの彼女は、「親に迷惑をかけてはいけない。育てていただいた恩を返さなければならない」と思っていた。

「今からすると、古くてつまらない考え方ですよね。大人になったら就職して、自立して、いずれ結婚したら相手の家に入って夫を支えよう、とか。時代劇や『関白宣言』が好きだったのもあって、武家の娘みたいな、『古き良き日本の女』みたいな価値観に縛られていました」。

こうして、最も強い願いを心の奥底に押し込めた彼女は、親に許されそうな範囲で青春を満喫した。

習い事は英会話とピアノ。ピアノを辞めたあとはミュージカルを習い、ミュージカルを辞めたあとはドラムスクールに通った。「趣味としてなら、何でもやらせてくれる親でした。ありがたいことです」。

中学校に入ると、男子に交じってサッカー部で活動したのち、2年生から美術部に所属。高校では漫画研究部、水泳部、美術部、科学部、合唱部を兼部した。「高校は制限がなかったので、たくさんの部活に入りました。好奇心のままに、面白そうだと思ったことは片っ端からやりました」。

高校生のころの将来の夢は、漫画家だった。

「小学校高学年のときには漫画を描いていました。漫画だったら、主人公や舞台設定を変えていけば、色んな世界のお話が描けます。興味のあることを全部味わえると思ったんです」。

高校卒業後は、帝京大学理工学部バイオサイエンス学科へ進学。「生物が好きだったし、就職も堅いだろうということで理工学部を選びました」。

栃木県内で一人暮らしを始めた彼女は、順調に学びを深めた。3年生になって研究室へ配属されると、そのまま大学院へ進むか、学んだことを生かして働くことのできる化粧品会社などへ就職するか、と悩みはじめた。

だが、思わぬ形で転機が訪れる。

「母が体を壊してしまって、世話をするために実家へ戻ったんです。大学まで片道3時間の道のりを、毎日、鈍行で通うことになりました」。

明け方に家を出て、深夜に帰る生活は、徐々に藍風を蝕んでいった。

何よりも辛かったのは、歌えなくなったことだと言う。

「それまで、毎日1時間は唄っていたんですよね。一人暮らしだから、お風呂でもどこでも気兼ねなく唄えるし、カラオケにも頻繁に行っていました。高校時代も、自転車での通学中に唄っていた記憶があります。

でも実家に帰って、自分の時間が全然なくなって、大学の研究室じゃ唄えないし、電車の中は唄っちゃいけないし。息が詰まって『死にたい』『消えたい』とさえ思うようになりました」。

肉体的にも精神的にも追い詰められた、ある日のことだった。

彼女はいつものように電車に乗って、お気に入りの音楽を聴いていた。

「ヘッドフォンから流れてきた曲を、思わず口ずさんでしまったんです。確か、鬼束ちひろさんの曲でした。曲名は覚えていません。多分、何でもよかったんです」。

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歌った瞬間、解き放たれたものがあった。

「すっと楽になりました。今までずっと息を止めていたんじゃないかというくらい。きっと私は子どものころから、無意識に唄いながら呼吸していたんだなって、私にとって唄がどれほど大事なものかを思い知りました」。

もう一つ、重要な気づきがあった。

「鬼束さんは素晴らしい歌手です。でも、そのとき私が救われたのは、彼女が上手かったからとか、高度な楽曲だったからとかじゃないんですよね」。

それまでの藍風は「自分のように下手で、作曲の才能もない人間が、音楽のプロを目指したり、人前で唄うなんてとんでもない」と考えていた。

「だけど上手くなくても、そこに音楽があるだけでいいのなら。私が唄うことで、同じように救われる誰かがいるかもしれないなら、唄ってみたいと思いました」。

歌の道へ進む意志を固めた彼女は、進路をがらりと変更した。

「家から近くて、定時で帰れて、そこそこ安定した給料をもらえる会社っていう条件に絞って就活をしました。仕事内容はもうどうでもよくて、さっさと帰って唄おう、唄中心でやっていこうと決めたんです。そうしたら、すぐに就職先が決まりました」。

シンガーソングライターの道を突き進む

都内の企業に正社員として採用された藍風は、2006年5月、シアーミュージックアーツボーカルスクールに通いはじめた。

「『唄いたい』という気持ちだけで、どうすればいいのか、何もわからないところからスタートしました。ライブハウスへ行ったこともなかったんです」と、彼女は振り返る。

「まずはスクール内の発表会に出て、だんだんと知り合いが増えて、ブッキングライブやフリーライブのお誘いをもらえるようになりました。初めてステージに立ったのは、08年くらいだったと思います」。

出演依頼を断ることはほとんどなく、がむしゃらに、毎週のようにライブをした。「今考えれば、とてつもなく劣悪な環境のライブにも出ていました。やたらノルマが高いとか、タイムテーブルがめちゃくちゃとか」。

当時の藍風は、CD音源を使って様々な楽曲をカバーするシンガーだった。

「大好きな美空ひばりさんや、中島みゆきさん、加藤登紀子さんの曲を唄うことが多かったですね。他にもCocco、aiko、BUMP OF CHIKEN、みんなのうたの楽曲などをカバーしていました」。

そのころは、「オリジナル曲を制作したい」という気持ちはなかった。

「唄えればそれでよかったんです。でも活動をしていくうちに、シンガーソングライターが主流だと知って、『やるしかない』と腹をくくりました」。

最初に作った楽曲は『雪牡丹』だ。「ふっと思い浮かんだワンフレーズに、雪が青空に恋をしたっていうストーリーをつけて完成させました」。

さらにスクールの講師から「2曲入りのCDにして発売しないか?」と声をかけられ、『六花の恋』を制作。09年4月3日、シアーミュージックエンタテインメントから1st Single『雪牡丹』をリリースした。

「CDの発売が、本格的な『藍風くじら』としてのスタートでした。CDを売るためにがんばろうっていう気持ちが出てきたし、初めて曲を作ってみて『シンガーソングライターって楽しいな』と思ったんです。

それまではカラオケが大好きだったのに、自分の曲ができたら、他人の曲を唄いたくなくなっちゃった」。

同時期からCD音源の使用を減らし、09年5月には、全編ピアノ弾き語りでのライブを敢行。「今でもよく覚えています。自分の誕生日の前後に出演した、Imix EKODAというライブハウスでのブッキングライブでした」。

当時、Imix EKODAの店長を務めていた井亀氏との出逢いも大きかった。

「井亀さんに声をかけていただいて、毎月ブッキングライブに出演することと、一年後にワンマンライブすることを決めました。他にも、音楽業界について教わったり、躓いたときにアドバイスをいただいたり、色んな面でお世話になりました」。

それから一年間、楽曲制作に勤しむとともに、ステージングや構成を勉強。10年5月、初のワンマンライブ『産声』を成功させることができた。

その後も毎年、自身の誕生日や音楽活動の節目にワンマンライブを開催。さらに路上ライブやインターネット配信、ユニット活動、CDの発売、オーディションやコンテストライブへの参加など、着実に活動の幅を広げていった。

活動していくうえで、最も大きな壁となったのは、ピアノだ。

「3歳から10歳までピアノを習っていたんですけど、練習が嫌いだったので、たいして身についていなくて。音楽活動を本格化させてからも、一番苦労しました。どんなに練習しても、本番の途中で止まってしまったり、ピアノに集中するあまり唄が疎かになったり」。

不甲斐ない自分への怒りや悲しみが溢れ、楽屋で泣いたことさえある。

「音楽仲間も増えてきたし、もう弾き語りはやめて、誰かにサポート演奏をお願いしようかと思ったこともあります。井亀さんが『たしかにお前のピアノは下手だよ。でも俺はお前のピアノが好きだよ』と言ってくださったので、踏みとどまれました」。

ピアノへの苦手意識を克服できたのは、最近のことだと言う。

「結局、一人で練習するのと、お客さんの前で弾くのとでは全然違うって気づいたんです。『こういうピアノが私。私のピアノはこれ』って開き直るまでに、10年くらいかかりましたね」。

自分にとって最も大切なものを分かち合える人

「音楽活動を開始してから現在までで、一番思い出に残っていることは何ですか?」と訊ねたところ、「旦那と結婚したことです」と答えてくれた。

幼いころの藍風は、「結婚は人生の墓場だ」と考えていた。

「どうせ周りが選んだ人と結婚するだろうし、自分の自由はなくなるだろうし、大事なのは忍耐だと。子どもは好きだったので、いつか産んで育てたいと思っていましたが」。

しかし今、振り返ってみれば、それらは本心ではなかったと語る。

「本当は嫌だったんだと思います。自分の選んだ人と結婚したかったし、ずっと好きなことをしたかった。『唄いたい』という気持ちを押し殺していたように、やっぱり空気を読んで、結婚に対する夢や希望も押し殺していたんでしょうね」。

そんな彼女が、現在の伴侶と出会ったのは、音楽活動を始めて間もないころだった。「とあるフリーライブに出演したとき、たまたま隣に座ったのが、今の旦那でした」。

第一印象は最悪だった。

「金髪で、長髪で、ザ・ロッカーって感じで、『チャラそうだなぁ』って思いました。でも話してみると、意外に落ち着いていて。見た目が若々しいので、10歳ぐらい年上かなって予想してたんですけど、実際は19歳上だったんですよね」。

彼の演奏にも惹かれた。

「やさぐれ気味なブルースロックを、ギターで弾き語っていたんです。『仕事したくねぇぜ』って感じが渋くて、カッコよくて。『私もそういうの唄いたい』って思いました」。

それからふたりは、約2年間、音楽仲間としてライブに誘ったり誘われたり、他の仲間もまじえて遊んだりと交流を深めていった。

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流れが変わったのは、彼が「音楽仲間の曲を集めたオムニバスCDを作りたい」と言い出したことだった。

「私の代表曲のひとつである『くじらいぬ』をCDに入れたいと言われたので、軽いノリで『いいですよ』って答えました。

そうしたら、ドラムとベースを効かせた、想像以上にカッコいいアレンジの音源が送られてきたんです」。

それを聞いた藍風は、感動を覚えると同時に、閃いた。

「最初のワンマンライブのために書き下ろした『産声』という曲は、ロックサウンドのイメージで作っていました。歌詞の一人称は『俺』だし、作曲しているときも、頭の中ではエレキギターが鳴っていて。でも自分はピアノ弾き語りなので、イメージ通りに表現できていませんでした。

だから、彼がアレンジした『くじらいぬ』を聞いたとき、『この人に「産声」もアレンジしてもらおう!』と思ったんです」。

ただちに依頼すると、彼はふたつ返事で引き受けてくれた。

「しばらくして音源が仕上がって、彼の家でボーカルのレコーディングをしました。それから家にあるDVDやCDを見せてもらったら、好きな曲が一緒で。そのまま宅飲みをして、朝まで盛り上がって。

『ああ、好きだ』と思いました」。

それまでにも、恋愛をしてこなかったわけではない。

「そこそこいいなと思う人はいたけど、すぐ冷めていたんです。唄う方が楽しかったので、ライブをしたら忘れてしまっていました。でも旦那のことは忘れられなくて、『この人しかいない!』と確信しました」。

何よりも大きかったのは、音楽で分かり合えたことだと言う。

「彼は私の音楽を、唄を褒めてくれました。子どものころから一番大事にしてきた部分を認めてもらったんです。

私も彼のギターや唄が好き。この人とだったら、ずっと一緒に音楽をやっていける。高め合っていけると思いました」。

2011年5月に交際を開始したのちも、彼は藍風のライブでのギターサポートや、ユニット『first cry』での相方、バックバンド『Music Gangsters』でのギタリスト、はたまたプロデューサーとして音源制作に携わるなど、様々な面で彼女の音楽活動を支えた。

15年5月に晴れて入籍したふたりは、6月に身内で結婚式を行い、9月に披露ライブを開催した。

「実を言えば、結婚するまで『私は本当に音楽をやっていていいのか?』という思いがつきまとっていました」と藍風は語る。

「親の教えに背いて、苦い顔をさせて、やりたいことをやるなんて罰当たりじゃないかって。幼いころからの強迫観念が、ずっと、残っていました」。

「でもそれを振り切って、音楽活動をはじめた。その結果として旦那と出逢って、付き合って、結婚まで漕ぎつけて。自分と彼とで新しい家庭を築いたとき、『もういいんだ』って、はじめて心の底から思えたんです。自分の好きなことを、好きなようにやっていいんだって」。

唄うことは、私が私であるということ

音楽活動を開始した2009年から、結婚するまでの6年間を、藍風は「迷いつつ、それでも唄いたくてやっていました」と総括する。

「私にとって唄は呼吸のようなもの。楽しいことを楽しいからやっているだけで、後ろめたい思いもありました。CDを何枚売りたいとか、武道館を目指したいとか、明確な目標のある仲間が羨ましかったです。でも、真似しても、気持ちがついていきませんでした」。

だが結婚を機に意識が変わり、『音楽を続けていくこと』が目標になった。

「この人とならずっと音楽をやっていける、やっていきたい、じゃあどうしよう?って。マネタイズに意識を向けるようになって、経営学のセミナーにも通いはじめました。そこである意味、音楽は二の次になってしまったんですよね」と彼女は言う。

「たくさん勉強して、『やりたいこと』『やれること』『需要』のすべてを満たすものでなければ売れないと痛感したんです。音楽にも売り方があるけど、自分がやりたい音楽と遠ざかってしまうのは嫌。

だから、やりたい音楽をやるために、音楽以外の収入源を作って、時間の余裕も作ろうとしました」。

自己プロデュース力をつけるためにスキルを磨こうと、会社員から占い師へ転職したり、ライブカフェやバーを開業する方法を学んだりもした。

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しかし20年春、コロナ禍が世界を襲った。

「思い描いていたものが、次々と崩れました。何よりも、コロナのせいでライブがなくなって、唄えなくなったことが辛くて。経営学のセミナーに行くことさえ苦痛になってしまいました。

『もういい。私はただ唄いたい』って」。

それはかつて、大学3年生のときに陥った心境によく似ていた。

「先に何もなくてもいいから唄いたい。極端な話、ホームレスになってもいいから、唄えればいいんだって。ある意味、原点に戻りました」。

これまでやってきたことが無意味に思えて、落ち込んだ日もある。自分がしたいことをするのか。他人に求められているものを提供するのか。未来が見えず、立ち止まった時間がある。

全てを乗り越えた藍風は、21年春、再び「自分が『価値がある』と思うことをやろう」という境地に至った。

それは大学生のころ、音楽活動をしようと決意したときと同じ結論だが、まったく同じではない。

「昔から、散々悩んで『これが答えだ』と思って、また悩んで…を繰り返してきました。私の人生のテーマなのかもしれません」と、彼女は笑う。

「『産声』という曲のなかで、私は『ねじ』という言葉を使っています。ねじを一回転させると、二次元的には同じ場所へ戻ったように見えるけれど、三次元的には、ひとつ奥へ進んでいる。深みは増しているんだ、ということを伝えたくて作った曲です。だから今回も、同じところを一周したようだけれど、意味合いは深まっていると思います」。

2007年7月27日にフジテレビ系で放送された『僕らの音楽』のなかで、シンガーソングライターのCoccoは「私にとって唄は、辛い気持ちを吐き出すためのもの。うんこだった」と語った。

藍風は、彼女の言葉に強く共感している。

「私も似たようなものです。唄わないと生きていけません」。

藍風くじらが末永く、息をするように自然に、心のままに歌い続けられることを願う。

text:momiji

INFORMATION

2021.05.28(Fri) open 17:00 / start 17:30
『くじら物語』vol.2

[会場] 真昼の月夜の太陽(東京都新宿区大久保2-6-16 平安ビルB1F)
[前売/当日] ¥2,500+1drink ※会場30名限定
[有料配信] ¥1,500(Twitcastingにて販売) ※6/11(日)まで購入可能

藍風くじらのくじらじお(毎月第一金曜日配信)

毎朝くじらっきー占い(毎朝6:30~6:45配信)

足ラジオ(毎週火曜日配信)

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