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飛び出し坊や考

飛び出し坊やが好きだ。
「夜中の汽笛くらいには好きだ。」

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思い返せば、俺は昔からずっと飛び出し坊やが好きだった。
飛び出し坊やの何がかくも俺を魅了するのか。
長らくこの問いを考え続けている。

【暫定的回答】

まず、そのフォルムである。
吸い込まれそうな漆黒の瞳。そして、一切の運動性を欠く身体。
今まさに到来しようとしている悲劇の直前の一瞬が永遠に引き伸ばされ、
その永遠の中で飛び出し坊やの身体は完全に弛緩している。時間を欠いた行為。
絵画空間の中でいかに時間を導入するかは絵画における古典的なテーマであり、その解決方法はふた通りあるように思われる。
1.デュシャンのように時間を引き延ばし、その中で運動の連続性を捉える。
2.カラヴァッジョのように時間を瞬間に固定し、身体の緊張に運動を表現する。

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飛び出し坊やはどちらの作品とも違っている。
そこに時間は存在しない。故に運動も存在しない。
もはやそこに表現されているのは身体ではない。一つの静物である。

しかし、飛び出し坊やの真の魅力はそのフォルムではない。
その不条理である。

飛び出し坊やは本質的に謙虚な記号である。そこに、一つの悲劇を提示するのみである。そして、飛び出し坊やは、自らが提示する悲劇の非-実現を以てその機能を果たす。

飛び出し坊やは、その名が指示するように、「飛び出し」た坊やであり、一つの悲劇を暗示する。しかし、その暗示はどこまでも暗示にとどまる。彼の周りに衝突する車両、あるいは彼が飛び出す理由となった事物(持物)は不在である。
飛び出し坊やとは、文脈や必然性を欠いた純然たる行為である。
それでも、飛び出し坊やは「飛び出し」坊やであり「衝突」坊やでないのだから、衝突という可能性は永遠に到来しない。つまり行為の帰結がもたらされることはない。当然そこに「回避」という安全もない。

さらに、飛び出し坊やが暗示する衝突という悲劇は、現実においてもそれが実現しないことによって自らの機能を果たす。悲劇が実現しなかった時、それは少なからず飛び出し坊やの功績であるが、同時に、その非-実現を以て飛び出し坊やの存在は無価値となる。訪れない悲劇を支持する空虚なシニフィアン。
(逆に、衝突が起きたならば、飛び出し坊やはその機能を果たしていないという意味で無価値である。)

おそらく、ここに飛び出し坊やの生きる不条理がある。
飛び出し坊やは自らの存在を賭して、衝突という一つの可能性を提示する。
しかし、飛び出し坊やの機能は、自らが提示するこの衝突を実現しないことにある。そして、非-実現を以て自らの機能を果たした時、飛び出し坊やは実現し得ない可能性を提示したという意味で無価値となる。一方、悲劇が実現した時、飛び出し坊やは機能を果たしていないという意味で無価値である。

凝固した飛び出し坊やの「飛び出し」は二重の意味で飛び出し坊や本人を裏切る。
まずは、飛び出し坊やは飛び出した瞬間、「飛び出し」という自らの行為の内部に閉じ込められるという意味において。
次いで、「飛び出し」という行為こそが、飛び出し坊やの無価値の指標になるという意味において。

おそらく、飛び出し坊やは一つの地獄を生きている。
彼はの行為は自らのうちにおいては完成しない。そして、完成しない行為を永遠に引き伸ばされた彼は無価値である。
シーシュポスが生きるような地獄。

だから、俺は飛び出し坊やが好きだ。
つらい時は最寄りの飛び出し坊やを見にいく。
彼の地獄に想いを馳せたりもする。

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