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19.“小さな清算“

とある深夜枠の番組で、出演していた医師の口から次のような要旨のことが語られていた。

『普段から(たとえばウォーキング等の)適度な運動をしている肥満体形の人と、全く何の運動もしていないが一切無駄な贅肉がついていない痩せている人、後々何らかの病気にかかる可能性が高いのは圧倒的に後者の運動しない痩せている人だ』

”痩せてる・太っている”といった多少の体形の個人差よりも、“運動しているかそうでないか”の日々の小さな生活習慣こそが、健康を損なうか否かの運命をわけていくのだという。


なるほどな。
ということは、これをヒントにこうも考えられないだろうか?

自分の周囲の人、他人に対し過剰に関心を示すことのない、口先ではご立派だがいたずらに干渉し合うことを厭うスマートなふるまいの人格者や善人。

他人の困っている姿を見ると見過ごせないでつい首をつっこんだり、一肌脱いで力を貸してしまうような一面があるけれど、一方で性格に多少のくせや欠点を多く抱えた人。

最初の頃はよく見えても、後々になると何らかの生きづらさを抱え込む可能性が高いのは前者であり、人との繋がりを強固にし、確実に生きやすい道を築きやすいのは後者なのでは。

もちろん、そうそう単純に分類できるものでもないだろうけれど、大切なのは生まれ持った素養ではなく、後天性の日々の地道な積み重ねの方だという示唆がそこに含まれているような気がした。


加齢と共に見えて来る身体の不具合

こんな教話が目についた。

『信心のおかげ』
年齢と共に、あちこちに支障が出てくるとは、老齢の人がよく口にする言葉である。つまり、腰が痛いとか、息切れがするとか、血圧が高いとなどである。
永い年月、休まず使ってきた身体であるから、それも当然のことかもしれない。がしかし、天理教の信仰の上から考えるならば、通り越してきた過去の心づかいの理が現れてきたと考えるべきであろう。
また、考えようによっては、今生に積んだ埃を来世に持ち越すことなく、晩年には一切を果たしてゆきたいと思うのが当然なのだから、そういう意味からいえば、大いに有難いことだと言わねばならんことなのである。
ともあれ、年齢と共に、老とは、自然現象であり、天理である思う。

北村光著『誠の心を求めて』より


北村光先生の面白い切り口での悟り方だと思った。
加齢とともに身体のあちこちに現れて来る関節痛などの不具合や種々の疾患、それらは若い頃に積んだほこりが掃除されないまま長年放置され、そういったものを残したまま出直してしまうと来世では“いんねん”となってしまい、より掃除が困難なものへと悪化してしまう。
そうならないように、次回に持ち越さないようにと、神様がなるべく小難に抑えた形で出してくださっている、そういう風に北村先生は解釈しているのだろうか。

いずれにせよ、とても明るい捉え方だと感じられる。
年とともに抱え込む身体の不具合に対し、「今このタイミングでこうやって現れて来ていること自体が有難いことなんだ」と、そう受け止めることが出来たのなら、苦しいことそれ自体の意味がきっと前向きに変わってくるだろう。

前述の、“きっちりすまし顔のスマート善人”よりも“多少大雑把でくせ強めだけど善く実行している人”の方がおそらく神様はお好みなのではないか思う。そんな人も、その粗さ故に晩年にはそれ相応のほこりの掃除時間とも言える身体の不具合に見舞われてしまうのかもしれない。

仮に、たとえそうなったとしても、北村光先生式の捉え方で悟り得るならば心に安らぎが訪れるだろうし、辛いことそれ自体が“こういう形で小さく今生中に清算を済ませているんだ”と、そういう角度での救済のひとつの体現として、穏やかに受け入れることが出来るようになるのではないだろうか。

欠点があってもいい。多少のくせや偏りもあってもいい。
“見ているだけの善人”よりも、“他人のために汗をかくお節介者”であろうと、そう思えた。

【2013.2】




おまけ(余談)

スタジオジブリの「かぐや姫の物語」を観たことがあるでしょうか?
個人的にはジブリ映画の最高傑作は宮崎駿の作品群のいずれかではなく、高畑勲によるこの作品こそがそれなんじゃないかと感じています。

かぐや姫のもとへ月からのお迎えがやってくる物語終盤。月からの使者はかぐやにこう告げます。
「さあ、まいりましょう。清らかな月の都にお戻りになれば、そのように心がざわめくこともなく、この地の穢れも拭い去れましょう」

それに対しかぐやはこう叫びます。
穢れてなんかいないわ
「喜びも悲しみも、この地に生きるものはみんな彩に、満ちて…」

私には、この下りががまさにこの物語の核心のように思えていました。

この世界は穢れてなどいない。

このひとつの言葉にどこか救われるような思いになります。

“我が家はいんねんが深いから”

そういう思いでその一家のもとに信仰が深く根付いている、そんなケースは其処彼処に数多く見られます。
だから信仰から離れてはいけない、信仰の真っただ中を突き進むよりほかに生きる道はない…そんな強迫観念との対峙を余儀なくされている方もきっとどこかにいることでしょう。

願わくば、そういった遠くの誰かにかぐや姫のあのメッセージが届いてくれたらいいなと思わずにはいられない次第です。


この世界は“穢れてはいない”のだと。


ここまで読んでいただきありがとうございました!
それではまた(^O^)

 

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