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平等と左翼思想について

前回「平等について」の実質続きになる。


引き続き、政治哲学者中川八洋氏の「正統の哲学・異端の思想」のテキストに沿って、というか丸パクりで話を進めていく。
(実際のところ、氏の著作の読書感想文である。)


前回で、近代政治思想における「平等」の概念が、その生みの親である18世紀の哲学者ジャン・J・ルソーの時点で、既に個人の隷従を前提として誕生した概念であり、使い方を一歩間違えると、社会秩序を崩壊に導く猛毒になるというところまで、中川八洋氏のテキストを読み解けた。

ルソーの「平等教」は、フランス大革命によって具現化される。


フランス革命は有名な「フランス人権宣言」と共に、近代民主主義を打ち立て「自由」を「人民」が勝ち取ったものとして、左派からは半ば神話化されている。


しかし実際にフランス革命によって出現したものは、限りない混乱と無差別殺戮独裁とギロチンによるこの世の地獄だ。


「自由・平等・博愛」のスローガンが実際に実現したものは「不自由・不平等・憎悪」であり、ただただ国内の社会秩序を破壊し、最終的にナポレオンと言う皇帝が支配する、「絶対王政」よりも退化した政治体制に逆戻りし、ヨーロッパ全土を戦火に巻き込むという最悪の結末を迎える。
その影響でボロボロになった大国フランスの、国家としての再生は第二次大戦後の第五共和制の成立まで待たなければならなくなる。


その世紀の混乱を生み出した1番の要素が

「人民の平等」と「人権」


の概念だ。

人民が皆「平等」で「人権」を持つ存在である。だからして、「平等」「人権」というものは至高の存在であり、憲法も法律も上回る。

「平等」を実現できるものは、すべての人民の意思の同意によった「一般意志」であり、その一般意志を正しく体現できる理性超人に全てを委任して統治させる事が、理想の国家を創りあげる、とするルソー主義は前回述べたところだ。

理性超人に全ての権力を集中させて盲従するのが人民の「平等」を実現する理想社会の条件だということなのだが、実際にはその様な理性超人は存在し得ない。

「平等」な社会は実現不可能であり、実現不可能なことを政治に持ち込めば最後、際限のない無駄と無用な国民への隷従の強制、果ては法律を超えた「一般意志」による殺戮の横行に行きつく。


平等とは本来宗教が担うべき役割であり、神のみがそれを実現できる。現実世界の泥臭いやり取りを積み重ねていく政治には全くそぐわないものなのだ。
これは近代啓蒙思想が世界を席巻し「神が死んで」以来、欧米を中心とする西欧先進国の共通の病理だ。神と、神の権威である教会が成すべき責務が政治に持ち込まれてしまっている。


左翼思想とは、人間の理性が「神」に取って変わるものであり、理性に基づく社会構築こそが理想郷(ユートピア)を生み出すという幻想に取り憑かれた「新興宗教」なのだ。


宗教的エネルギーというものは人間にとって大変強烈なものであり、それは多分に情動的な発露をする。


所謂左翼思想を奉じる人に知識階級が多いのは、ユング心理学的には「思考」機能を優勢に発達させており「感情」(※)機能が劣等で未分化なため、情動的な扇動に簡単に乗せら易いからと分析される。


しかもルソーやマルクスはその「情動的な扇動」を如何にも深遠な哲学思想の高みにまで理論化・体系化している。その点が唯一、ルソーやマルクスが天才たる所以なのだろう。


ダグラス・マレーが著書「大衆の狂気」で指摘している所だが、左翼思想の文章は大体酷く訳が分からず難解であり、この様なものは大抵、言うべきことの中身が無いものを無理やり理論化しているものだという。(そしてその難解な文章を理解できない事を、本人の能力不足だと帰責する。)


その様にできている難解な「扇動の書」を読み解いて理解した時、「自分はこの難解で崇高な思想を理解できた。理解できない人間が知能が低く反知性的野蛮人、右翼なのだ。」というナルシスティックな確信へと至るので、最早この認知の歪みは修正が不可能に近いレベルでパーソナリティに食い込んでしまう。


扇動に乗せられたが最後、感情機能が未分化であるが故に容易に情動と結びついてcomplexを形成し、持ち前の優れた思考機能は役に立たなくなる。


大抵話が通じないのも、ここに原因がある。


良く分化した感情機能は、バランス感覚や多角的視野をもたらすので、政治家には必須の素養だ。

そもそもこの社会、というか自然そのものが平等ではない。また社会は、集団的存在であるが故に、全ての不平等に応える事は、その構造から言って不可能だ。


不可能事象を、人間の理性をもってすれば必ず解決でき、理想の社会を構築できるはずだと信じる「宗教」が、ルソー-ヘーゲル-マルクス-レーニン-マルクーゼに連なる「左翼思想」なのだ。


保守主義の父エドマンド・バークは「フランス革命の省察」の中で、フランスの歴史・経済・政治の状況を考えてもフランスは革命を起こす必然性は全くなかった、と述べている。

バークは暴力的に権力者を追放する事は、それ以外にもう手段がない、本当に最後の手段だと位置付けている。

そしてそれでも、その“革命”での破壊は必要最低限でなくてはならず、それまで築き上げてきた為政者階級(貴族など)の完全な破壊などは愚行の極みである、と断じている。


良く左翼思想の信奉者は、「日本は人民による革命が達成されていない。明治維新も武士階級の権力争いであり、真の人民による革命ではないので、日本は革命を成さなければ真の民主主義にはなり得ない。」と言うが、愚論の極みと言って良い。


全てを転覆し破壊する「革命」など経験しなくて良いのだ。


日本は明治維新で、武士階級=為政者階級が内戦を行なってまで日本の行く末を憂いて戦った。
だが決着がつけば、再び天皇陛下の下に団結をし、西欧列強の脅威に抗うべく「富国強兵」の道を歩み出した。


武力闘争があっても、国体は崩れず、伝統と社会秩序を維持したまま立憲君主制の近代国家を成立させたのである。
この様な奇跡を成し遂げた国は世界広しといえど、イギリスと日本以外には見当たらない。


それは一重に、日本人の精神的支柱としての天皇陛下の存在と、佐幕派も討幕派も天皇陛下を守るという共通認識「伝統」があったからなのだ。
そもそも“革命”が“必然”だと考えている時点で、世界観が致命的に歪んでいる。


話が「平等」からずいぶん逸れてしまったが、「平等」とそこから生まれ出た「左翼思想」が根本から履き違えをしているということを述べられたのではないかと思う。

「平等」と「人権」か、
「伝統」と「秩序」か。

どちらを選ぶか問われれば、

私は「伝統」と「秩序」を選ぶ。




※ユング心理学では、意識の機能を思考・感情・感覚・直感の四つに分類している。
感情とは、一般的な意味での感情ではなく「価値を判断する機能」と定義している。
思考と感情、感覚と直感は互いに相反する意識的機能であるため、どちらかが優勢の場合にはどちらかが未分化の劣等機能となる。
劣等機能は“意識化”が充分ではないため、無意識下の“情動”と同化し易い、とされる。

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