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「謝ったら死ぬ病」って民主主義の敵?ー東浩紀さん『訂正する力』を読んで

仕事でもプライベートでも、「あ、この人謝れない人なんだ」って思わせる人、たまにいませんか? 最近、気持ちのいい言葉ではないですけど、「謝ったら死ぬ病」ってよくききます。ちょっと謝罪して軌道修正すればいいのに、それができない。あくまでも「自分は間違ってない」「わかっていたけど、たまたまできなかった」…などなど。いろいろ理由をつけて謝らない。そういう人、みなさんの周りにもいないでしょうか。

少し世間を見渡せば、身のまわりに限ったことでもなさそうです。たとえば政治の世界や言論の世界、あるいはSNSの世界でもそんなことばかりです。「間違っていました、すいません」というのがない。「確かにそっちの方がいいかもですね」も言えない。まるでそうした”訂正”が犯したら負けの禁じ手のように存在している。そんな気配がこの社会には確実に存在しています。

東浩紀さんの『訂正する力』は、まさにこうした世間の気配を危惧しつつ、負けないこととは一線を画す回路を提示する本です。その回路とはタイトルのとおりなのですが、『訂正する』こと。自分の意見が変わったり、状況に応じて軌道修正することは、「負け」でも「ブレ」でもなく、民主主義社会には必要なものであると言います。

特に印象的だったのは、「そもそも訂正する前提がないと、本来議論が成立しない」という指摘です。仮に相手が「私はブレない」というスタンスの人(どこかの政治家のキャッチコピーだった気がします)だとしたら、そういう人とは議論の妥結点が見いだせない。相手を言いまかすか、自分が全部譲るしかないのです。殊に政治家は、自分の後ろに支持者もいる。与党も野党も同じで、ますますブレることができずに意見が硬直化する。その結果、国会での議論が水掛け論的に劣化してしまっていると、東さんは指摘します。

これは社会のあちこちで起きている現象です。妥協や譲歩ということがどこか「悪」と見られている。「清濁併せ呑んで最大公約数を探る」ということがない。保守かリベラルか、競争か格差是正か、マジョリティかマイノリティか……白か黒か旗色を決めて徹底的にスタンスを維持するしか選択肢がないのです。あいまいな意見を表明すれば、ひとたび両サイドから攻撃されるというのが、今の言論をめぐる状況でしょう。

筆者の東さんは、まさに「あいまいな」意見を表明し続けてきた人と思います。当然のことながら、そのあいまいさは常に批判の対象になってきました(そしてその批判は往々にして党派的な言説強めの人からなされるものです)。そんな東さんだからこそ、状況に応じて考えが訂正される、あるいは白黒をはっきりさせない言説が重要であるという主張はとても説得力があります。

さらに東さんは付け加えているのは、これはとても大事なことなのですが、「訂正」というのは、「リセットではない」ということです。今までのことを引き受けつつ、アップデートするというのが「訂正」です。

「確かに僕はこういう意見を持っていたけど、あなたの意見を聞いて考えを変えました」というのは、自分が異なる意見を持っていたことを引き受けつつ、考えを訂正することです。「僕は初めからそう思っていたんだ」と、以前の自らの考えを棄却するのは訂正ではないのです。

東さんが「修正」ではなく「訂正」という言葉を使っている背景には、「歴史修正主義者」という言葉があります。たとえば「○○というジェノサイドはなかった」みたいな歴史的事実を否定する人たちです。この人たちは東さんの言う「訂正」よりむしろ「リセット」に近い。「修正」にはどうしてもそのイメージが付きまとうため「訂正」という語を選んでいるそうです。

よく考えると、「訂正」って勇気が必要な行為だと思います。過去をすべてリセットするのは、過去を受け入れないという意味で、責任を放棄しているとも言えます。だから、人間の弱さが人々を「ブレなさ」へと駆り立てる。過去と向き合わずに自分の意見を貫いているだけで良いと思えるのですから。しかしそれでは、他者あるいは自らの過去と対話をすることができない。言い換えれば、過去を引き受け、未来へとつなげていくというのが「訂正」なのだ、とこの本を読んで強く思いました。

有り体ですけど、間違っていたらちゃんと謝って訂正できる大人でありたいですね。(D)

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