見出し画像

「あまちゃん」と僕と資本主義―大澤真幸さん『資本主義の<その先>へ』を読んで

今、NHKのBS放送で「あまちゃん」やってますよね。リアルタイムで放送していたときは、まだ僕は大学生で、朝ドラ見放題な身分だったので、当然リアルタイムで見てました。でも、今改めて見ると、当時3周(盛ってない)は見たはずなのに、やっぱり超おもしろいんですよね。何がおもしろいかを書き始めると、それだけでマガジンになっちゃいそうなので、割愛しますけど。笑

どうして、いきなり「あまちゃん」の話を書き始めたかというと、大澤真幸さんの『資本主義の<その先>へ』を読んでいて、「あまちゃん」のことを思い出したからなんです。

もともと、これもまた学生時代なんですけど、日本の社会学系のテキストを読み漁っていた頃があって。その中でも特に印象に残ってたのが、大澤真幸さんの本でした。
ただ大澤先生の本はとてもやさしい日本語で書かれているはずなのに、本当に難解なところがあって、当時は何度読んでも「???」ということもありました。それでも通底しているメッセージは明快。現実への分析はとてもクールな一方で、究極的には未来への希望(悲観の対義語として)が根底にはある。決して、読者を絶望させるのではなく、それでもポジティブに社会を構築していくにはどうするか、そのための論考がなされているところが強く印象的でした。
実は、学生時代に一度だけ本物の大澤先生の講義を受けるチャンスがありました。他学部の講義に大澤先生が代打で登壇されるという情報を聞きつけて、講義に潜り込んだんですよね。それくらい影響を受けた方なのかなと思います。

それで、『資本主義の<その先>へ』の話です。
ここでは詳細な内容の紹介は避けます。何しろ、テキストは450ページ以上にわたり、さまざまな角度から資本主義あるいは資本主義を支える人間の精神性が論じられています。もし、本の内容についての解説が読みたいという方は、哲学者の國分功一郎さんが専門家の視点からわかりやすく紹介されているので、そちらをおすすめします。

さて、この本のテーマを簡潔に言うならば、タイトルの通り、資本主義の先に何があるのか?というものです。昨今―といってももう数十年になる気がしますが、ずっと「資本主義は終わりに向かっている」という言説がささやかれ続けています。けれどもその一方で、では「資本主義が死んだ後、一体どんな社会が現れるのか?」と問われると、実のところその答えは明確になっていません。終わりは見えているのに、その先にあるものが見えない。それはなぜなのか、そしてその先に何がありそうなのか?その問いに対する論考がこの本で織られています。

大澤先生の議論は、経済はもちろん、宗教、科学技術、文学、哲学もといった幅広いジャンルにおよびます。その議論から、資本主義とは単に経済学的な観念ではなく、人間のあらゆる営みを規定しているものであるという主張が読み取れます。
とりわけ、18世紀以降の科学技術および小説と資本主義の連関に関する論考は圧巻です。科学技術も小説もキリスト教の「予定説」的な価値観のもとで発展したと言う点で共通しており、それが資本主義の進展と軌を一にしているという議論のダイナミックさは、ぜひ読んで体感してほしいと思います。貪るように読んでしまいました、実際。

こんなにドッグイヤーつけちゃいました

そして、そろそろ「あまちゃん」に戻ります。
大澤先生は最終章で、資本主義のまさに<その先>にどのような形態があり得るのかを論じています。ここも詳細な解説は避けますが、ここで大澤先生はこの章までの議論とマルクスなどの議論を踏まえ、資本主義はその結果として、コミュニティの「内/外」という線引きをして「疎外」を生み出す。そして、コミュニティ同士は互い相克しあう(=一種の紛争状態)と論じています。
ではこの相克性をどのように資本主義を乗り越えていくのか。大澤先生はそのヒントを、アフガニスタンで人道支援に尽力された中村哲さんの事例を参照します。どうして先進国、特にアメリカの援助が失敗に終わったのに、中村さんはアフガンに受け入れられ、紛争状態にあったアフガニスタンで、人道的な支援をしつつ、現地の人々にあまねく支持されるに至ったのか。

それは、中村さんが人々の中に入り込み、「他者でありながら同一な存在」として課題に取り組んだから。そう、大澤先生は考察しています。

この矛盾したアイデンティティを同時に抱えながら現地に入り込んだことが成功の要因であると。これを普遍化すると、「他者でありながら同一な存在」が触媒となって、相克しあうコミュニティ同士が相乗する関係に生まれ変わる。これが大澤先生の仮説です。
グローバル化した現代において、「他者でありながら同一な存在」が媒介して、国際社会を変質させていくことは可能なはずたと、そしてそういう変質が、資本主義で疎外された人々を救い出すものになるというのが、(おそらく精緻さに欠けますが)ここでの大澤先生の議論の要諦です。

で、「あまちゃん」を見ていた方は、もしかするとピンと来たかもしれないんですけど、「他者でありながら同一な存在」って、まさにヒロインのアキなんですよね。彼女は東京生まれでありながら東北にやってきて、地元の方言を地元の人以上に使いこなすほど、地域にどっぷり入り込んで、そしてご当地アイドルとして、街おこしに奮闘する北三陸という街を変質させていく。

「あまちゃん」の凄さは、それを舞台を変えて3回、「他者でありながら同一な存在」がコミュニティを変質させる様を描いていくこと。そして、アキは資本主義が解決し得なかった、震災復興、地域格差といった課題に果敢にも切り込んでいくのです。
この本を読みながらちょうど「あまちゃん」を見てたので、ずっと「あまちゃんで言うと、こういうことだな」と勝手に解釈してしまいましたが、その分具体的なイメージを持って、議論を読み進めることができました。本って、読むべくして今読んでるなって思う瞬間がありますが、まさに今回はそういう経験でした。「あまちゃん」と並行して読んで本当に良かった。

ちなみに、今回は触れていませんが、小説が資本主義の進展の中でどのように進展したのか、と言う議論は、普段社会学や哲学に触れる機会のない方でも、興味深く読むことのできる部分だと思います。小説が小説たらしめているものは何なのか、なぜ人々が小説を必要としているのか、その点をプロテスタント(ピューリタン)的な価値観に参照しつつ、現代に生きる私たちにも驚きを与える議論を展開されています。(D)


この記事が参加している募集

#読書感想文

192,504件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?