見出し画像

【適応障害回顧録】8冊目の日記⑤ 陽の当たる者に戻り、二年ぶりの桜


~転勤先でのパワハラを上申することを図った私は北海道支社、本社から要注意人物のラベルを貼られ、北海道では「いなかった人」にされ続けた。捨て身で本社帰任を引き出した私は休職者という立場を受け入れ、東京へ帰任する。休職者として新年度をスタートさせた私は自分らしさを信じ、行動し続けた。そして、減薬症状に苦しみながらも、陽の当たる者(存在する人)となり、二年ぶりの桜を見ることができたのだった。復帰への日々が始まる。~


4月1日(減薬初日)

2時就寝→8時起床

朝食、服薬

先週の診察記録を書く。あっという間に11時になった。

生活記録表の記入をして、仕事に関係する新聞のスクラップをする。

11時半 4回目の診察

診察記録参照

新宿で買い物をし、タクシーで帰る。

午後、昼寝を3時間ほどしてしまった。

4月1日だからか新宿は人が多い。気のせいだか街が張り詰めている。

妻は私の母と昼食を食べたようだ。昼からビールを飲んだそうで笑っていた。妻の不安の原因は私なのに、私は良かったと思えた。変な状況である。

夕方、家の近くの喫茶店に行く。今日は減薬の初日である。

足のしびれが普段より強い気がしたが、そんな程度だ。

20時 夕食、その後入浴

21時 服薬


4月2日(今の自分は今の自分の無意識な行動が支えてくれる。まだ、生きている)

1時就寝、7時起床

二度寝してしまい9時半に起きる。


人事部のスタッフからメールが届いていた。私のメールへの返事はそつない返事であった。彼と分かり合える日はないだろう。

この時期、私は休職発令とともに本社に帰任することになったわけだが、その際の転居費用で本社と揉めていた。本社は転居に伴う費用(要するに引っ越し代)を出すつもりはなかったが、私は転勤(本社への帰任)だと主張した。このあたり、私と人事部のスタッフは互いに感情的になってしまっていたが、今、振り返れば明確なルールがあれば私も人事部のスタッフも苦労しなかったように思う。そういう意味では、メンタルヘルス不調への対応というのは個別事情ではありつつも、企業の転勤・異動・昇進といったストレス反応が大きいイベントを行った場合のケースを想定して大筋の基本方針は策定しておくのが良いと思える。

先日、タクシーの中で携帯を見つけて届けた方からお礼の手紙が届いた。ありがたいことである。時々、自分自身が無意識に取る行動が自分がどういった人間だったか生き方を思い出させてくれる。そして、今の生き方を支えてくれる。

間違っている、間違っていないという言い方は最近は使わないようにしている。真理は一つであると思うからだ。

みんなに支持されなくても、誰か支持してくれる人がいるならそれで良い。午後は荷物を預けているトランクルームに荷物を運びに行く予定だった。

昼食を食べる前に何かイライラというか、焦燥感という感情が湧いてくる。根本にあるのは午前中、人事部のスタッフがそっけないメールをしてきたからだろう。

イラッとしたものがあって、それがセパゾンが切れた昼に現れたのだと思えた。結局、足がしびれてきて横になった。易疲労のようなだるい状態だったので寝てしまう。寝てる間の夢で昨年の今頃を思い出す。

夢の中で、過去の体験が脳裏に復元され、同じストレスを味わうことになった。妻曰く、寝ている間に「うるせぇ!静かにしろ!」と叫んでいたらしい。それもあって、相当、声を出して泣いてわめきながら寝ていたようだ。

夕方まで寝てしまい、妻と夕方、家の近くの喫茶店へ行く。30分ほどして落ち着いてきた。減薬により、具合が悪かったら金曜日追加で受診をしようと思った。

帰り際、喫茶店のマスターと話をした。自営業には自営業の厳しさがある。

20時 夕食、服薬

21時 入浴

23時 就寝

夕食を食べつつ、ふらふら感が出てきている。肝臓の状態が関係するのだろうか。

4月3日(文章を書く)

午前中、トランクルームに荷物を運びに行った。

午後、図書館へ行って本を借りた。ふらふら感が出てきて、夕方また寝てしまう。いつも通り、家の近くの喫茶店に行き、自分の今の感情を文章にして書いていた。

4月4日(思わぬリハビリへの道)

10時 朝食服薬

資格試験の勉強をしたが、減薬症状は現れなかった。
この日は中学校の頃に通っていた、公文の先生に会おうと思い、電話をした。今は書道を教えているそうだ。公文というと国語・英語・数学しかイメージがなかったが、今はいろいろあるらしい。

週2で教室を開いているらしく、明日ちょうど開いているらしい。

だから会うことにした。

4月5日(多分、先生の元に相談に来たのは私が最初ではない)

この日は夜、寝れなかった。

減薬症状なのかもしれないが、3時ぐらいまで眠れなかった。

午前中、妻とコーヒーを飲みに行く。この日は違う喫茶店に行ったがあまり美味しくなかった。

中学校の頃に通っていた公文の先生にお会いした。気のせいか、先生は若返った気がする。もう6年ぶりである。


先生は私の病状を母から聞いていたようで、最初から違う仕事をした方が良いと言ってきた。先生にとってもパワハラは身近なようで、私に限らず教え子が色々と相談に来るらしい。

私がうつを発症した当初、小学校の頃に通っていた公文の先生に希死念慮があることを見抜かれ、腕をグッと捕まれて「帰ってきなさい!」と言われたことを思い出した。あれから一年近く経っている。


どこの公文や教育者も同じような事があるのかもしれない。

夕方、喫茶店に行く。今日もマスターと話す機会があった。

皇居の乾通りの桜の一般公開について、少し話をした。私と同じように喫茶店に通っている高齢の女性がこの桜を見たいらしい。ただ体が不自由なようで、実際に見に行くことはできないらしい。妻と一緒に桜を見に行こうと思った。写真か動画でも見せて差し上げられたらと思ったからだ。

結局、夕方まで喫茶店にいたが意識がはっきりしなかった。寝不足のせいもあるかもしれない。この日は眠る時にはすぐに寝れた。

4月6日(反射、フラッシュバック、焦燥)

午前中から資格試験の勉強をした。昼時に寝てしまった。

夕方から相変わらず家の近くの喫茶店にいる。そういえばと小学校の頃の公文の先生が気になった。手紙を送ろうと思い、手紙を書いた。明日出そう。

神田橋先生の本を読み始めた。厚みがあるが『精神科養生のコツ』という本だ。勉強になる。

17時頃、何気ないことを母親に止められた時、本社の人事部にパワハラの報告を止められたことと重なってしまう。フラッシュバックというより、私の場合は反射的にこういった状態になる。どこかに出かけたいが、体が重くて動かない。夢の中で私は潰されていた。北海道での日々を支えてきてくれた人々の顔が走馬灯のように出てきて、泣いた。東京で今、私は一人。妻と二人だ。


4月7日(薬局の鈴木さんに初めて相談した日)

朝10時に主治医のクリニックの予約を入れ、その日の11時に診察してもらった。

診察内容は診察記録参照

診察の後、薬局へ行ったがその際に薬剤師の方にお礼をした。

昨日の夜、夜中に焦燥感が出てきて、かなり苦しかったのだ。おそらく減薬に伴う影響だが、相談できるところがなく、薬局の相談電話に電話をした。当番制で薬剤師が電話を持っていて、夜中だったが相談に乗ってくれた。でも一方で、結構、びっくりさせてしまったと思ったのでお詫び(お礼)をしたのだった。

ちなみにこの時、電話を受けてくれた薬剤師の方には今でもお世話になっている。今でも、相当に苦しかった頃の闘病当時の私を知る少ないうちの1人だ。

昨日、電話した際どういう状態だったがなぜその様になったか結果なぜこの薬の処方となったか私の考えるところを説明した。

話しながら意識がはっきりしてきた。帰宅後、疲れ、だるさのあまり寝てしまった。

夕方、家の近くのカフェに向かう。喫茶店のマスターの奥様は私が今日、皇居の乾通りの桜を見に行ったと思っていたようだった。

土産話を聞きたかったようだが、私は今日、体調が悪く行けなかったと伝えた。妻と喫茶店にいた高齢の女性と3人で30分ほど話をした。

小出さんという方で心臓が悪く、何度も手術をしたそうである。高齢の女性だったが、文化人のような気品が感じられた。

夜はなかなか寝付きが悪かったが、午前1時ぐらいには寝れた。

4月8日(二年ぶりの桜、皇居乾通りの桜)

午前中、電車で四谷まで向かいタクシーで桜田門へ向かう。

桜田門から坂下門まで歩いた。お昼過ぎに家の近くの最寄り駅に戻り、自宅で昼食を食べた。

20時半頃、パニック発作が出てくる。過呼吸に似たような症状と下半身のしびれだ。意識ははっきりしていて、ふらつきはないものの胸が苦しく、耳鳴りがする。目の下の方にオレンジ色の膜ができているようにも見えた 。目がおかしくなると恐怖やパニックが増長され、しんどくなってくる。

4月9日(減薬症状 ~意欲の減退~)

この日の朝は昨日の不調の名残がもの凄かった。 EMDRについての本を取り寄せておいたので手に取るが、量が多い。EMDRに関しては全くわからないので読む必要があると思った。最近、気づいたことだが午後、昼寝を2、3時間してしまうと入眠の瞬間は良いのだが、だんだん体がだるくなってきたり、おかしくなってくる。

減薬症状について記しておこう。

意欲の減退が凄まじい。

薬を増やした時というより、発症時に近い。しかし、再発ではない。

今日は夜、薬を飲んだが飲んだかはっきり覚えていなくて不安発作気味になりかけた。減薬に関しては抗うつ薬ばかり頭に浮かべていたが、特にセパゾンが悪さをする気がする。

うつ病の再発の定義がわからなくなってきた。そもそも再発などあるのだろうか・・・

再発とはそもそもなんだろうか・・・

日本語としても簡単に片付けている感じがする。体の状態は白黒では表現できないのでは?特に、精神疾患は病気である・ないの明確な判断が難しい気がしている。

4月10日(同じクラスの同級生は小学生)

夜遅くまで寝れなかった。

午前中は自分が手書きで書いた文字をパソコンで打ったが、想像以上の時間がかかってしまい疲れた。

昼食は家の近くの喫茶店で食べた。

午後、2時間半ほど寝て夕方、中学の頃通っていた公文へ行く。

先生に勧められ、初めて万年筆というもので字を書いたが難しい。

先生は私の良き理解者だ。そして、隣で習字を習っている生徒は小学校1年生である。社会人になって、この歳になって隣に座っている同級生が小学生になるとは思わなかった(良い意味でである)。

4月11日(夢の中でのパワハラ上司との対峙)

昨日、公文の帰りに気になっていた店に行ってみる。いつも通っている喫茶店とは違うカフェだ。

パワハラをした上司への怒りの感情が寝る直前に芽生えてきた。上司の住んでいる家が分からなくてよかった。分かっていたら、殺していたかもしれない。


起きた後、身支度を早めに整えたがどうもだるい。日内変動的な感じを受けた。結局、お昼に寝てしまった。夕方、家の近くの喫茶店に行く。


寝る前に怒りの感情が再び湧いてくる。

東京に帰ってきたのに旭川の上司と夢の中でよく対峙している。

4月12日(メンタル不調者の疲れは翌日の命取り)

その日は午前中、公文の先生に妻を紹介した。この日も寝過ぎてしまい、お昼ぐらいから活動した。その日は資格試験の勉強をして、3時間ほど一気に集中して勉強してしまい、疲れたが達成感はあった。体調は良かったのだが、翌日に響くことになる。

4月13日(元の自分のパフォーマンスは出せない気がする)

喫茶店のマスターの奥様がフラワーアレンジメントをされていると聞いていた。展示会に出品したらしいので、妻と気分転換に花を見に行ったらものすごい疲れた。人混みや騒音といったものは大丈夫だったが帰り、とても疲れた。特に山手線では絶望的に体調が悪かった。

帰宅した後、久しぶりにぶっ倒れる。

22時頃、薬が効いてくる感じがしたのだが、突然、焦燥感がやってきた。

30分ぐらいじっとしていたら治った。ここ最近、思うのだが元のような企画立案ができる総合職のサラリーマンはもうできない気がする・・・

できなかったら、しょうがないから違うことをやろう・・・

そう思えた1日の終わりであった。

4月14日(ペンの持ち方も、気の持ち方も、心の持ち方も同じ)

2時就寝、7時起床

睡眠時間に比例して頭はすっきりしている。朝から若干、気が立っている。

今日は色々と涼しもうと朝食を食べて、公文のペン習字をする。持ち方一つで字がだいぶ綺麗になった気がする。ペンの持ち方も、気の持ち方も、心の持ち方も同じかもしれない。

■主治医の診察

先生は私が最近、文章を書いていることを気にされていた。

何を書いているのか?と聞かれ、旭川での闘病をもとに小説を書いているということを伝えた。先生は小説を楽しみにしておられた。

減薬症状は薬の増量時と似ている気がしている。

次回、また一週間後とのことだ。

生活リズムが大事とのことで、11時に寝て6時に起きることを先生には促された。イライラや衝動性は薬が安定するまでやむを得ないとのことだった。

主治医の診察から帰宅し、2時間ほど昼寝をする。

小出さんに喫茶店でマスターの奥様が作ったフラワーアレンジメントのブーケの写真を見せた。とても喜んで頂けた。

そして、私の大事にしていることを聞かれた。

私は病気になって以来、利他を貫いていると答えた。北海道で奇跡がきっかけで出会った地域の方に支えていただいているからだ。

小出様は私もそうだと答えられた。そして、「それは疲れることだけど良いことなのよ」と言われた。


小出さんは私の感性を評価してくれた。感性が素晴らしいという風に言われたが、「感性」の意味がよくわからず、どういうことか私にはよくわからなかった。

ただひとつ言えることは私の進む道はだいぶ歩きにくい道だし、前も後ろも人がいない。明るいのか暗いのかも分からない。でも、まっすぐな道で嬉しい。

涙が出そうだったが、出なかった。感情の抑圧ができる・・・

心のコップが膨らんでいる。感傷的になったことは脳と頭の筋肉の感覚でわかる。久しぶりに”安らぎ”というものを思い出した時間であった。

20時 夕食、服薬

23時 就寝

私の進んでいる道は、正しい・正しくない・間違っている・間違っていないといったもので区別できるものでもない。私が進みたい道だから、険しい。でも、今が人生で最も清々しい気分である。