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【適応障害回顧録】8冊目の日記② 新宿の魔女

~東京の実家での居候生活を始めた私は勤務先の契約しているEAPカウンセラーから紹介されたクリニックへ転院する。本社から紹介されたということでどんな医者か不安を抱いていた。ただ、この医者との出会いがなければ今の自分は間違いなくいない。ここまで回復し、正社員として、管理職として評価されながら働き続けるレベルを維持することはできなかったと思う。そういう意味では主治医と自分の相性というのはいわば”賭け”の要素がある。このnote、8冊目の日記②はそんな医者”新宿の魔女”との初診を含めたエピソードだ。~

3月8日(生活音が原因でフラッシュバックが起こってしまう)

7時半起床

8時朝食、目のヨガ

9時半から大学の図書館でメンタルヘルスマネジメント2級の勉強をした。

13時 昼食、服薬

午後は家の近くの喫茶店で勉強をする。

18時入浴、19時夕食

母親が天ぷらを台所で揚げていたのだが、天ぷらの“パチパチ“という音でなぜかフラッシュバックが起こってしまった。

音には非常に過敏である。旭川の冬はきつかったといったことを回想する。30分ほどで回復してきた。

21時服薬、23時就寝


3月9日(父と車に乗ったら父親が上司に見えてしまい、フラッシュバックが出てしまう)

10時半起床、朝食、服薬

寝すぎてしまった。

昨日、頭を使いすぎたと反省。東京に来て今日は一番体調がよい。

11時 妻に北海道の家の荷物が私の実家に入りきらず、トランクルームに入れているがパンパンだと聞き、見に行く。確かにめいっぱい詰め込まれている。旭川から東京へ戻るにあたり、休職中だから超大企業に勤めていても住宅手当は出ない。

そのため、実家に身を寄せる必要があったのでトランクルームに私と妻の荷物を押し込んだのだが、妻の言った通り確かにトランクルーム1部屋だと荷物が入りきらない。妻には申し訳ないと思う。

今日、遅く起きてしまったので薬は3時頃飲むことにする。午後は旭川の魚屋に頼んでいた魚介類が実家に届いた。おばさんが看護師ということもあって私がメンタルヘルス不調になってしまった事を心配してくれていた。それで、北海道の魚屋から魚介類を取り寄せて、手土産にしておばさんに家に伺った。おばさん家族は一年半ぶりに会ったが、家族皆元気で安心した。

おばさんの家を出た後、旭川でお世話になっていたパン屋の息子が保育園に入学したということで入学祝いに何か買ってあげようと思いトイザらスに行った。ただ、あまりの店内の混雑さに疲れてしまった。帰りは同行していた父親に車を運転してもらったのだが、助手席にいる時に上司から受けたパワハラのシーンがフラッシュバックしてしまった。父親が上司に見えて、具合が悪くなってしまったのだった。

帰宅して、夕方、寝てしまう。夕方寝れたということはやはり体調が悪かったんだろうと思う。目覚めてもまだ体調と精神状態に波があることがわかる。

19時 夕食

具合が悪くなる前の体のサインや心のサインが東京の雑踏のせいか把握しづらくなっている。

20時 服薬

22時 パキシル服薬


3月10日(新宿の魔女との出会い)

8時起床、服薬

午後、高校の後輩と数年ぶりに会った。高校の後輩はやりたい事が見つかったようで安心した。大学も卒業出来るようだ。

この高校の後輩も精神的な治療が必要で薬を飲んでいる。それで、離脱症状について色々教えてくれた。後輩も抗うつ薬のパキシルを飲んでいるようだ。ただ、パキシル CR ではなく普通のパキシルを飲んでいたらしい。今は違う薬を飲んでいるとのことだった。パキシルを5mgから0mgにする時、頭がグァングァンするらしい。

すぐに症状が来るというよりは3日目から5日目に来るとのことだ。セロトニン濃度が変化するのにタイムラグがあるのかもしれない。大変貴重な情報だった。

その後、転院先の主治医となる可能性がある医者の診察を受けるために妻と合流し病院へ向かった。

予約した時間にクリニックへ来たが、中に入れない。まだ、午後の診療が始まっていないみたいだ。時間がきて、ドアは空いたが、患者のプライバシーのために家族でも一緒に入れないとのことだった。妻に悪かったと思いつつ、新しいクリニックのシステムに慣れないものの黙って待合室で待つことにした。

初診は時間をかけて診察してくれるようで予約をした時に、診察の順番を待つのも含めて2時間くらいかかると言われていた。初心は丁寧に診察してくれるようで安心していた。罪を犯しているわけでもないのに、番号で呼ばれた。診察室に入ると、ソーシャルワーカーのインテーク面接が行われた。自分がどういう仕事をしていて、どういう調子か、薬にアレルギーはないかといった基本的なこと聞かれた。また、北海道での療養中の日々の過ごし方などを話した。

ソーシャルワーカーからは「精神科医はどうしても相性があります」と言われる。女性の先生と聞いていたが、はっきり物を言う人みたいだ。

私もはっきりいうタイプだから、問題ないと伝えた。

30分後、診察室に呼ばれ“新宿の魔女“と会うこととなる。

診察室に入った瞬間、この“新宿の魔女”の部屋に入ったという感覚を持った。うまく書き表せないが、これまで私は医者にかかるたびに診察室というのはなるべく物がなく、白衣を着た先生がパソコンと睨めっこしながら診察するという印象を持っていた。だが、この“新宿の魔女”の診察室はこれまでの診察室というより、この精神科医の書斎に来たという感覚に近かった。“新宿の魔女”のテリトリーに入ったような気がしたのだった。

<診察>
気分の波はあるか?という質問に対して、ほぼ一定であると回答した。ただし、その日、負荷をかけすぎると夕方16時から18時頃に耳鳴りやめまい、目の疲れといった症状が出てきて頭が重くなる。横になってしばらくすると回復する。発症当初と比れば回復にかかる時間が短くなったように思う。翌日まで前日の不調が残遺症状として残ることはほとんどない。無意識にセーブして日々を過ごしているといったことを話した。


「転勤先の北海道から戻ったのが遅すぎないか?」という質問に対しては「休職発令と同時に東京の本社に戻った。私が退職するのを待っていたのか、責任の所在をどうするのか考えていたのかわからないが自分が主体的に動かなければ今、ここにはいない。それ以上は答えたくない」と答えた。

私が所属している本社の産業医をこの“新宿の魔女”は知っているようで、「あの先生が産業医なのに、なぜこんなに放って置かれるのかと?」いう質問に対して、私は産業医は本社の産業医であり、北海道支社の旭川支店に転勤していた私の対応をしてくれる北海道の産業医は内科医ということで、何度、北海道での産業医面談を依頼しても「病状を優先してもらいたいから来なくてもよい」とのことだった。

主治医は旭川では初診お断りが多く、見つからず札幌のクリニックまで通院していたが、この診察に合わせて産業医面談を依頼しても駄目だった。私の口を閉ざしたかったのだと思う。

結局、家内も勤務先との対応に疲れ、共倒れ寸前だったので私が本社のその産業医との面談を依頼して9月半ばに強引に行ってもらった。


それ以降、2ヶ月に1度のペースで電話で本社のその産業医の先生に面談をしてもらっていた。だんだん、本社からの救いは来ないとわかった私は9月半ばに本社におしかけて産業医面談をしてもらった。その時、産業医として本社へ私の安全配慮に関して勧告を要請した。おそらく、産業医や本社の保健師にも私が捨て身できたのがわかったんだと思う。結果、産業医として本社に安全配慮の観点で戻すよう話をするという内諾をその場でもらって、休職発令と同時に異動させるというタイミングを待つため、北海道の冬を越して東京へ戻ってきた。北海道支社の産業医は名前も知らないし、顔も知らない。内科医と聞いていたので、どうしても会いたいという気にもならなかった。自分の体調があまりにも悪く、ただ事じゃないというのは発症して、就労不能の診断書を主治医に初めてもらった5月くらいにはわかった。だから、とにかく間違いない人に会いたかった。本社は超大企業だから間違いない医者を雇っているだろうし、同期に相談したところ本社にはメンタルに特化した産業医や保健師がいると聞いた。それで先生の友達の産業医の先生に面談してもらっていた。本社の産業医が悪いということはないと思う。

「それって法律的にまずいんじゃないの?」という質問に対して次のように回答した。


今、私と妻は東京にいる。妻の実家も関東だから、両親にいつでも会いに行ける、実家にいつでも帰れるという状況を作れた。法律的に本社や北海道支社の対応がまずいかどうかは今は手負いの状況だから、争おうにも何もできない。自分は職場復帰を優先したい。

「労災なんじゃないの?」という質問に対しては次のとおり回答した。


業務上、私傷病の判断は客観的判断によって行われると思う。主観的な所感は私は自分に何かプライベートにストレスがあって、自分の事情で具合が悪くなったのではない。事実として言えることは私が転勤後、1か月で精神障害を発症し、旭川から2週間に1度、東京から軽井沢までの距離と等しい札幌まで通院し発症から11ヶ月後、勤務先の命により東京へ戻り、ここにいるということです。

「どのぐらい休めるの?」という質問に対して次のとおり回答した。


休職者としての休職期間は約1年です。復職が決まったら、妻に迷惑をかけ続けているから一か月くらい九州一周でもするかと言っています。

「奥さんは大丈夫なのか?」という質問に対しては次の通り回答した。

妻は春、夏は旭山動物園で誘導係のアルバイトとして働いていた。アニマルセラピーのようなことも兼ねていると思ったから、私のことを心配していたがバイトに行ってもらった。私の近くにいてもらっても、急性期だったので心配させるだけだった。北海道にも旭川にも地縁血縁のある友人も親戚もいない。そんな辛い日々だったけど、旭川も田舎らしいところがあって人の情が厚い場所だった。地域の人に支えてもらい、秋と冬をしのいだ。今、私と一緒に私の実家に居候しているけど私の母とは仲良くやっているから大丈夫だと思う。なによりようやく後方の憂いなく療養に入れる。妻と共倒れは避けたかった。

「よく北海道の旭川で耐えたわね」


年明け、1月から先月末位まで勤務先と休職中の正社員身分の扱いとか東京に戻る上での手続きなどの見解の相違があり色々と本社の人事部と揉めた。相当のストレスで限界が近かった。まあ結論、耐えられたわけだが実家もあり長年住んだ東京に帰ってきたのに帰ってきた気がしない。1回死んで生き返ってここにいるという感じがする。

「防衛本能が強く働いてる感じがするわ。EAP のカウンセラーもざっくり言えば会社が雇っているものだし会社といろいろあったのはわかるけど、東京に帰ってきたんだしゆっくり休んだら?1日どうやって行動しているの?」

朝8時に起きて日本経済新聞の記事で気になったものをスクラップし、午前中、図書館で日々、思ったこととか書き物をしている。午後は本を読んだりしている。夕方は症状が出やすいので横になっている。日内変動というより 16時から18時に不安発作が出やすいです。

「書き物って何?パソコンとか?」

療養中の記録を闘病記みたいなものですが書いています。原稿用紙に鉛筆で書いて翌日、赤鉛筆で直しています。認知能力のリハビリになっている気がします。

「なら良いわ。でもそこまでされて何で辞めないの?」


私が何も悪くないのに、自己都合退職する理由がないからです。

北海道にいた時も別にいつでも辞めれた。なぜ辞めないのという問いであれば体験者が職場にいることが今の勤務先に必要だと私なりに思うのです。本来、人事部とかそういった部署にそういった役割を担う方がいた方が良いと思うのです。ただ、それは勤務先が考える話でしょう。旭川での療養中、社内社外関係なく私に相談をしてきた人が結構多くて。なんで私に?と思ったんですが心身への負担があることも正直あったが自分で回復のために目指すボーダーは人から求められて乗り越えるボーダー位の高さがあるのかもしれないと思うのです。

私は自宅療養を開始してからフェイスブックなどで自分の状態を発信していたので連絡しやすかったんだと思う。

「ボーダーって何?」

これ以上、動いたら身体症状が出るという境目で予防的な基準のことです。

「東京はどうかしら?」

まだ、ボーダーが分かりづらいです。旭川と環境がかなり違うので戸惑っていますが大丈夫だと思います。

「気温とか天候で具合が悪くなる人もいるんだけどどうかしら?」

外的要因として騒音がまだ辛いです。旭川の気圧は980ヘクトパスカル。東京は1010ヘクトパスカル。身体症状のうち頭の重い感じは気圧の差もあると思っていて一概に東京の環境が悪いともいえない。そのうち、緩和されると思っています。

「主治医の先生の処方も見たけど、服薬は私も同じ処方をするかな。パキシルは SSRI の中でもフラッシュバックによく効くのよ。セパゾンも結構フラッシュバックに効く薬だから。」

パキシルがフラッシュバックに効くというのは強迫性障害に効くとかそういったことも関係しているんでしょうか?私が頼んで服薬量を50mgから37.5mg にしました。健康診断を受けたところ肝臓の数値が良くなくて、ただでさえだるいと思ったので、50mg飲み続けると薬のせいでよりだるいと思ったからです。抗不安薬のセパゾンは11月から12月頃でしょうか。 朝昼晩1mgずつ飲んでいるものを1日2mgに減薬しようとしたのですが失敗しました。天井に黒いシミが浮かんできて、光が眩しく感じられるようになりました。結局、セパゾンは朝昼晩の1mgずつ1日3mgに戻しています。ベンゾ系の精神安定剤なので個人的にはパキシルよりセパゾンの減薬を覚悟しています。

「主治医の先生からの手紙を見ると、過敏性腸症候群ってあるけどお腹の調子はどうかしら?」


トランコロンを飲んでいるからかなり効いています。転勤後、旭川で症状はほとんどありませんでした。食生活も改善しました。油ものはあまり食べていません。

「意識していないけどフラッシュバックが多いんじゃないの?精神的な症状に比べて身体症状が多い点が気になるわ。」

無意識に耐えているのかもしれません。何も考えないで何かに没頭していると良いんですが、何かしていない時に発症当初のパワハラといった出来事よりも継続的な出来事、つまり本社がどう考えていたか真相はわかりませんが退職勧奨っぽい扱いを受け続けてきましたから勤務先と意思疎通が出来なかった時などを思い出してしまう事が最近は多いです。もう済んだ話で、私は東京に自分の力で戻ってきたと思いながら横になるのですが、体にしびれが出る時が多いです。改善策はないので、じっとしていると1時間ぐらいで治ります。

「しびれは手ですか足ですか?」


全身です。ただ、正座して立ち上がる時のしびれとは何か違う感じがするんです。

「パキシルの減薬症状かもしれないわね。長く弱く持続する人もいるから。」

それであれば、思ったよりマシです。旭川で不調が急に出た時は夜間救急もないし旭川の精神科は新規患者の受け入れが難しかった状態だったから相当覚悟しました。

「痺れが良くなったら間隔を開けて良いと思うけど、一週間後に通院できますか?」

わかりました。来週伺います。

「パキシル CR は37.5mgから25mgにして通常の錠剤の5mgを足しましょう。セパゾンは減薬する時は顆粒の薬に変えましょう。」

わかりました。 SSRI (抗うつ薬)の減薬からお願いします。セパゾンは約10ヶ月服用し続けています。セパゾンを減らすのは体調も万全の状態で家族のサポートも得やすい時期に行いたいのです。

「フラッシュバックに効く組み合わせだって神田橋先生が言ってる漢方薬が2種類あるから飲んでみる?」

飲みます。神田橋先生の医学部講義は市販本を読みました。

「何か質問ある?結構、詳しいみたいだから何かあれば言って」

抗うつ薬や精神安定剤を服薬しつつ職場復帰することは考えていません。再発予防のために最低限の服薬が望ましいということは分かりますが、私は例えばパキシルで言えば、ほんの少し飲んでいることころから全く飲まないことにした際の離脱症状が一番大きいのでは?と考えているのです。今、薬によって上昇している、回復していると見えている様々なものが自分の治癒力で一定の段階になるまでおそらく時間がかかると思うのです。だから少なくとも SSRI (抗うつ薬)は飲まずに、ベンゾ系の精神安定剤は極力効果と作用時間の少ない薬剤に変更したいのです。セパゾンを飲み続けることはそのうち効かなくなってくると思いますし避けたいです。

診察が終わった後、先生との受け答えを振り返った。


薬の処方方針や治療方針には何を申し上げることがなかった。パキシルCR の25mg+5mgの組み合わせは私も考えていた。また、セパゾンの減薬のために今の錠剤をいずれ顆粒にすることも考えていたが漢方薬までは考えていなかった。精神科というのは面白くて、出身の医大や所属の学会から生まれる流派というものもあるのかもしれない。“新宿の魔女”と言っている新しい主治医にはなんだかピアノの先生みたいな印象を受けたのだった。人に教わって備わっている範囲ともともと備わっているものとまあ色々とあるのだろう。先生の親が医者だった気がしたので聞いてみたらやはり医者ということだった。

先生からは診察の最後に「自分を大切に、ゆっくりしなさい」との言葉を頂いた。もう遅いかもしれないがこういった言葉をかけてもらえるのは嬉しい。

処方

毎食後
セパソン1mg、トランコロン7.5mg、ビオフェルミン錠剤
桂枝加芍薬湯、四物湯
   夕食後
パキシルCR37.5mg

その後、クリニックのすぐ近くにある薬局に向かった。新宿のこんなど真ん中に薬局があるなんて、精神疾患になってクリニックに通うことがなければ全く気が付かなかった。

薬剤師にはフラッシュバックが出ますか?と言われる。先ほどのクリニックに来た患者はたいていこの薬局で薬を処方されるのだろう。薬剤師にこう言われた私はフラッシュバックの症状を持つ人がこの世の中に相当数いるように思えて内心で、驚いていた。

新宿という場所柄、患者は女性も多い。色々と抱えているのだろう。妻に診察の内容などを伝えようと思ったが、診察まで待合室で待ち疲れ、“新宿の魔女”と話し疲れ、クリニックは初めての場所でもあり、相当疲れた。

20時 夕食、服薬

24時就寝